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リヴァプール一筋17年。ジェラードは愛するクラブのために全身全霊を賭してプレーした [写真]=Getty Images
1998年11月29日のブラックバーン戦。ヴェガード・エッゲムとの交代で、初めてプレミアリーグのピッチに入ってきた18歳の青年を見て、リヴァプールのファンは「あのやせっぽちのガキは誰だ?」とつぶやいた。
本人いわく、右サイドバックでプレーしたデビュー戦は「ポール・インスには怒鳴られるし、(マッチアップしたブラックバーンの)ダヴィド・ジノラにはおちょくられるし、最悪だった」という。だが、マージーサイド郊外の街ハイトンで生まれ育ち、エヴァトニアンの親戚に青いシャツを着せられようと、アレックス・ファーガソンの誘いを受けようとも、愛するレッズでのデビューだけを夢見てきたスティーヴン・ジェラードにとっては、夢が叶った瞬間だった。
それからおよそ17年。ジェラードは何度もアンフィールドに魔法をかけ、ファンを魅了してきた。やせっぽちの少年が「キャプテン・ファンタスティック」と呼ばれる英雄に変わっていく過程を、彼の背番号と同じ8つの名シーンとともに振り返る。
【初タイトルは「カップトレブル」】
ジェラードが初めてタイトルを獲得したのは、“カップトレブル”を達成した2000-01シーズンのこと。
リーグカップ、FAカップに続く3冠目となったアラベスとのUEFAカップ決勝は、延長戦の末に5-4という死闘だった。ジェラードはこの試合、見事な飛び出しからマイケル・オーウェンのパスを受け、右足を振り抜いてネットを揺らし、国内だけでなく欧州の舞台でも存在感を示すことに成功した。なお、この大会で得意のプレースキックを武器に大活躍したのが当時36歳のMFギャリー・マカリスターだったが、若き日のジェラードにとって、隣でプレーする百戦錬磨のベテランは素晴らしい“教科書”だった。
【宿敵ユナイテッド相手の初ゴール】
宿敵マンチェスター・ユナイテッドから奪った初ゴールは、2001年3月31日、アンフィールドでのゲームだった。
開始16分で決めた先制点にして決勝点は、ジェラードのスタイルを象徴するようなボックス外からの豪快なロングシュートだった。その後、ジェラードは何度も宿命のライバルチームを苦しめてきた。フェルナンド・トーレスとの黄金コンビで4-1と大勝した08-09シーズン、3本のPKを蹴って2本を決め、3-0で勝った13-14シーズンと、“テレビカメラにキス”という名セレブレーションが生まれたオールド・トラッフォードでの2試合を覚えている人は多いはず。それだけに、わずか38秒で退場してしまった先日のラストバウトが悔やまれるばかりだ。
【23歳でキャプテン就任】
「時々、メルウッド(練習場)から帰宅するドライブの途中で車を止めて、自分に言い聞かせるんだ。『オレはリヴァプールFCのキャプテンなんだ』ってね」
2003年10月、ジェラール・ウリエ監督は、23歳のジェラードをキャプテンに指名した。それまで荒っぽさが目立ったジェラードのプレーが改善され、振る舞いに責任感が生まれたのはこの出来事が大きなきっかけだ。ちなみに、主将になって最初にした仕事は、シーズン途中に腕章を奪われてしまう形になったサミ・ヒューピアに謝罪をすること。リヴァプールという名門を束ねることの誇りや意味を知っているからこその行動だった。
【トロフィールームでの残留宣言】
今年1月にアメリカ行きを発表するまで、ジェラードの移籍が現実味を帯びた唯一の時期が、04年〜05年にかけてだった。
ジョゼ・モウリーニョ監督から熱烈なラブコールを受け、チェルシーから当時の倍額となるサラリーを提示されたジェラードだが、04年の夏にアンフィールドのトロフィールームで記者会見を開き、こう話している。
「僕は自分の心に従うよ。チェルシーに行くつもりはない」
世界中の注目が集まる中での残留宣言。1年後、イスタンブールで奇跡を起こしたジェラードは、2年連続でチェルシーが提示してきたオファーも「あんな夜を経験した後に移籍するわけがない」と一蹴している。
【オリンピアコス・ビューティー】
逆境でこそ、真価を発揮する。そんなジェラード評を確立したのが、04-05シーズンのCLオリンピアコス戦だろう。
グループステージ最終節。試合は残り5分を切り、決勝トーナメント進出にはどうしてもあと1点が必要だった。その瞬間、ジェラードは眼前にやってきたボールを無心で叩いた。右足から放たれたシュートがまっすぐゴールネットに突き刺さる。
「Ohhhhhhhh Ya Beauty!」
テレビを通じて英国中に響き渡った解説者アンディ・グレイの大絶叫は、今でもファンの耳に残っている。
【イスタンブールの奇跡】
上記オリンピアコス戦で魔法を使ったジェラードは、チームをイスタンブールでの決勝に導いた。だが、そこでも試練が襲い、ミランを相手に前半でなんと3点ビハインド。誰もが優勝を諦めた。
しかし後半開始直後、ヨン・アルネ・リーセのクロスにヘッドで合わせたジェラードのゴールが、すべてを変えた。キャプテンに煽られたサポーターが一瞬で息を吹き返し、さらに2点を追加したリヴァプールはあっと言う間にスコアをタイに戻すと、延長、PK戦の末に大逆転でビッグイヤーを手に入れた。
延長戦、ジェラードは右サイドバックに入ってミランの“ジョーカー”だったセルジーニョのドリブルを必死に食い止めた。奇しくもデビュー戦と同じポジションで栄光のために奮闘した彼の姿に、心を打たれたファンは数知れない。
【FAカップの「ジェラード・ファイナル」】
ジェラードの魅力が凝縮されたような試合だった。だからこそ、06年のFAカップ決勝は“ジェラード・ファイナル”と呼ばれている。
ウェストハム相手に2点を先制されたリヴァプール。キャプテンは美しい放物線を描く得意のロングパスでジブリル・シセの得点をアシストすると、自らも豪快なボレーを決めてスコアは2-2に。だが、ラスト25分で相手に勝ち越しを許し、絶体絶命かと思われた90+1分。またしてもジェラードが魅せた。相手のクリアボールを30メートル超の距離からダイレクトで叩き、起死回生の同点ゴール。その勢いのまま、リヴァプールはPK戦を制した。後にジェラードは、もし足にケガを負っていなければロングシュートは選ばずにボールをトラップしていたと明かしている。まさに、“怪我の功名”が生んだ名場面だった。
【記念のダービーでハットトリック】
2012年3月14日のマージーサイドダービー。1点目は左足で柔らかく、2点目は得意の右足で豪快にネットを揺らすと、最後は終了間際に、相棒ルイス・スアレスの完璧なお膳立てからハットトリック達成。ジェラードにとってプレミア400試合目という節目のゲームを完璧な形で飾るとともに、この日がエヴァートンの監督就任10周年の記念日だった敵将デイヴィッド・モイーズに赤っ恥をかかせたあたりも、レッズの英雄が千両役者たるゆえんだ。
「キャプテンなら、なんとかしてくれる――」
8つの名場面を見てきたからこそ、サポーターはジェラードに夢を見て、ジェラードを愛してきた。
「THE BEST THERE IS, THE BEST THERE WAS AND THE BEST THERE EVER WILL BE」
今年1月、退団を発表した直後にゴール裏のファンが掲げたフラッグにはこんな文字が刻まれていた。
現在ベスト、歴代ベスト、そして永遠にベスト。
これこそ、“コップ”たちの偽らざる思いなのだ。
本記事は「サッカーキング」から提供を受けております。
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