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前衛からハリウッドまで駆け抜けた『アカデミー賞』デザイナー・ワダエミの流儀

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前衛からハリウッドまで駆け抜けた『アカデミー賞』デザイナー・ワダエミの流儀

前衛からハリウッドまで駆け抜けた『アカデミー賞』デザイナー・ワダエミの流儀

 

日本を代表する衣装デザイナー、ワダエミ。黒澤明監督の映画『乱』で『アカデミー衣装デザイン賞』を受賞。以降、様々な映画などで、国際的なビッグネームとのコラボレーションを続けてきた彼女は、戦後の日本カルチャーシーンの最先端を走り続けた女性でもあった。

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6月13日からパルコ劇場で上演される東京公演を皮切りに、全国計5か所を廻る舞台『メアリー・ステュアート』(演出:マックス・ウェブスター)。16世紀に生きた対照的な二人の女王――スコットランド女王のメアリー・ステュアートと、イングランド女王のエリザベス1世を描き、現代の視座から史実を通して「女性の生き方」を問う本作の特徴は、4人の登場人物を2人の女優で演じるところにある。つまり、メアリーを演じる中谷美紀はエリザベスの侍女を、エリザベスを演じる神野三鈴はメアリーの乳母を演じ、さらに相互の役を入れ替えて進行していく、複雑な合わせ鏡のような大胆な作品だ。

今回は、この刺激的な歴史劇『メアリー・ステュアート』を起点としつつ、ワダエミの生き方の流儀と彼女の魅力を探ってみた。都内の閑静な住宅街にあるご自宅で、彼女の半生、そして仕事について、貴重な話を伺った。

■やっぱりディレクターもいろんな迷いがあるものですから、衣装はいつもギリギリになってしまいます。そんな経験を何度もしているので、生地はいつも持ち歩いているんです。

―『メアリー・ステュアート』は二人芝居で、中谷美紀さんがスコットランド女王メアリー・ステュアートとエリザベス1世の侍女を、神野三鈴さんがイングランド女王エリザベス1世とメアリーの乳母を演じます。つまり、舞台上でそれぞれの主従関係がどんどん入れ替わっていく……とてもミニマムな構造の作品ですね。

ワダ:はい、難しいオファーをいただいてしまいました(笑)。私、「衣装はキャラクターである」という持論をずっと通してきたんですね。今作はその持論が通らない脚本で、すごく悩んだ結果、「今回の衣装はキャラクターじゃなくて、テクスチャー(質感)が根幹だ」と。そこから発想していくしかない。

―キャラクターを表現するだけではない、衣装のあり方にチャレンジした。

ワダ:そう。演出家のマックス・ウェブスターと打ち合わせしたときも、「女優は裸足で演じる」「靴は履かない」ってことはすぐに通じ合ったんです。靴は、いろんなキャラクターを表現できるアイテムなんですね。映画では靴が見えないシーンもあるけど、舞台ではずっと見えちゃうでしょう。で、裸足に一番似合うのはじつはヌードなんだけど、そういうわけにはいかないので(笑)。

―キャラクターを表現する「靴」を履かない舞台だからこそ、衣装のテクスチャーが肝なんですね。ここに来てワダさんの新境地が観られると。

ワダ:そうですね。でもなかなか時間がなくて、まだ詰められていない部分が結構あるんです。

―6月の公演まで、まだ油断ができないわけですね。

ワダ:はい。私の場合、事前にバシッとすべて決まっていたのは黒澤明さんとの仕事だけでございまして(笑)。やっぱりディレクターもいろんな迷いがあるものですから、衣装はいつもギリギリになってしまいます。途中で台本が変わるとか、直前まで振り回される香港映画とか(笑)。短い期間で対応しないといけない仕事を何度も経験しているので、どこにどう使うかわからないけど、生地だけはいつも持ち歩いているんです。

―臨機応変に対応できるように。

ワダ:あくまで共同作業ですから、こっちもライブでやっていこうと思って。ただ、最近は映画がデジタル撮影になったでしょう。そうすると後処理……ポストプロダクションでどうにかすることもあって、私が「この色しかない!」って思っても、後から簡単に変えることができちゃうのが辛いのね。

―映像はすべてがポスプロに回収されがちな時代になってきていますよね。

ワダ:そういった意味で、舞台は面白いですね。私、オペラはたくさんやっていますが、ストレートプレイの演劇は意外と少ないんです。でも、20歳のときに初めて手掛けた仕事が、詩人の堂本正樹さん作の『青い火』(1957年)っていう舞台の衣装なので、そこからぐるっとひと回りして演劇の世界に戻っているのは、ちょっと面白いなって自分で思っているんです。

■戦後はあらゆる文化の影響をたっぷり享受しました。まだ情報が本当に少ない時代で、海外の文化を吸収することにみんな必死だった。

―面白いなと思ったのは、『メアリー・ステュアート』の原作者であるイタリア人作家ダーチャ・マライーニは1936年生まれで、ちょうどワダさんと同世代ですよね。同じ時代を生きてきた女性が作品を通して出会うというのは、精神の共振において強い必然があるんじゃないかと。

ワダ:なるほどね。たしかに、私たちの世代の女性はフェミニズムの影響を強く受けていて、自立した生き方を実践していました。私は中学から京都の同志社女子で、大学までエスカレーター式で進学できるのに、同級生はなぜか京大に進んだり、慶應大やお茶の水大に行ったり。

―独自の道を選ぶ、進歩的な女性が多かったと。

ワダ:多かったです。やっぱり時代の影響はすごくあったと思いますね。私は小学3年生で終戦を迎えて、戦争で大阪の実家が全部焼けて何にもなくなっちゃったんです。でも同志社女子中学に入ってからは、当時の京都に入ってきていたあらゆる文化の影響をたっぷり享受しました。昭和24年(1949年)頃かな。まだ情報が本当に少ない時代で、海外の文化を吸収することにみんな必死だった。フランスの前衛画家、たとえばジョルジュ・ブラックの模写だけで展覧会をやっていたり(笑)。

―本物じゃなくて、模写だけの展覧会(笑)。ワダさんはもともと画家志望で、洋画家の堂本尚郎(どうもと ひさお)さんに習われていたんですよね?

ワダ:ええ、中学生くらいから油絵を。その頃、堂本さんは京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)の学生だったんです。彼から受けた影響は大きくて、背伸びしてサルトルを読んだり、「公楽小劇場」っていうフランス映画専門の劇場までジャン・コクトーの映画を観に行ったり(笑)。そんな調子だから、大学進学のときも、堂本さんと同じ美大に行こうと思って西洋画科に進んだんですね。

■衣装デザインの仕事は、「他者がいる」ことで成立するところが面白かったんです。

―いわゆる最先端カルチャー少女だったんですね。

ワダ:あと私の家のすぐ近所に、依田義賢さん(溝口健二監督の最盛期の作品で知られる脚本家)が住んでいらして。じつは彼とは遠い親類なんですが、依田さんのお宅で、のちに夫となる和田勉とも出会ったんです。

―当時、和田勉さんはNHK大阪の新進気鋭のディレクターでしたよね。

ワダ:大学3年のときかなあ、たまたま私がお使いで依田さんのお宅に行ったら、テレビドラマの脚本依頼で来ていた和田を紹介してくださって。NHKがテレビドラマを始めるということで、彼は映画の脚本家や作家の人たちに声をかけていたんです。当時のテレビは全部生放送ですから、彼のドラマは非常に実験的で面白かったですよ。

―そしてワダさんは美大在学中にご結婚されて、最初の仕事も和田勉さん演出の舞台『青い火』だったという。まさに運命的な……。

ワダ:まあ結婚するときに、「料理も掃除も一切しなくていい」って言ってくれたのが大きかったんですけど(笑)。『青い火』はとにかく予算がなくて、彼は手近な私に「舞台の衣装をやらないか」と声をかけたのね。そもそも当時はコスチュームデザインをやることが職業として全く確立されていなかった時代だったんですよ。だから「衣装デザイナーになる」とか、そういうことは全然考えもしなかったですね。

―自然な「流れ」に乗っただけだった。

ワダ:完全に「流れ」です。『青い火』の衣装は下着用のメリセスの生地を手に入れて、手縫いで仕上げました。染めは全部学校で(笑)。結果的に彫刻のような衣装になり、「いままでになく斬新だ」という評価を一部でいただいて。それから、舞台をご覧になってくれた演劇評論家の武智鉄二さんに誘われて、ミュージカルやアングラ歌舞伎の仕事なんかも始めました。

―『青い火』の経験は、衣装デザインの面白さを発見したきっかけにもなったわけですね。

ワダ:そうなんです。絵画というのは個人作業で、本質的に「完成」することがなく、自分が納得するまでいつまでも終わらない。衣装デザインの仕事は、「他者がいる」ことで成立するところが面白かったんです。『青い火』は、若い詩人の作品を上演するという企画の一環で、いま思うと、一緒だったメンバーに寺山修司さんがいたり、すごい人たちばかりでした。みんな20代で、寺山さんは早稲田で短歌を書かれていた頃かしら。

■「草月アートセンター」「東京画廊」が前衛芸術家の溜まり場になってた1960年代。当時はジャンルを超えて話し合う空気がありました。

―和田勉さんの豊富な人脈によって、当時の先端的な表現者たちとどんどん出会うことになるわけですね。

ワダ:はい。数年後、彼の転勤で大阪から東京に来たら、人脈がさらに広がりました。1960年代ですから、「草月アートセンター」「東京画廊」なんかが前衛芸術家たちの溜まり場になってた時代ですね。私たちは新宿に住んでいて、近くに「キーヨ」っていうジャズ喫茶があったんですが、そこには三島由紀夫さんがよくいらしていた。和田勉は、三島さんと『鹿鳴館』(1970年)っていうテレビドラマで一緒に仕事しているんです。美輪明宏さんも、「銀巴里」(銀座にあった日本初のシャンソン喫茶)でライブをされていた頃からのお知り合いで。当時はジャンルを超えて話し合う空気がありましたね。

―まさにカウンターカルチャーが日本で花開いた頃、その渦中に居られたわけですね。ワダさんご自身もジャンルは関係なく、面白いものは面白いという姿勢で吸収されていかれた。

ワダ:そうですね。私の意志というより、出会いの中で自然に蓄積されていったものですが。そういえば、『記録映画』という雑誌(記録映画作家協会の機関誌)で、3号だけ編集者をやったこともありました。編集もライター経験も全然ないのに、やる人がいないから手伝ってくれって頼まれて(笑)。

―できてしまうのがすごいですね(笑)。

ワダ:全然勝手がわからなかったので、「とりあえず私が気になる人をインタビューしていいですか?」って、吉本隆明さん、羽仁進さん、勅使河原宏さんに取材させてもらいました。もちろん舞台衣装の仕事もいろいろやっていましたよ。たとえば「発見の会」っていうアングラ劇団で『ゴキブリの作りかた』(1966年)という舞台の衣装をやって、これがなぜか大ヒットしちゃったり。

―素敵な秘話の数々です。でもワダさん、その頃はもう息子さんをご出産されてますよね?

ワダ:はい、お母さんをしながらやっていました。まあ息子に関しては「自分で育ってくれ」って感じだったんですよ(笑)。

■やっぱり、「いい人に出会ってきた」ってことだと思います。

―ワダさんといえば、『アカデミー賞』衣装デザイン賞を受賞した黒澤明監督『乱』を始め、映画のイメージがありますが、初めて映画の衣装を担当されたのが、セイモア・ロビー監督の映画『マルコ』(1972年)で、そのあと『乱』(1985年)までは、しばらく間が空くんですね。

ワダ:はい。しかも『乱』は大メジャーな黒澤監督の作品だったので、それまでの仕事とは全然違ったんですよ。私はずっとカウンターカルチャーの世界に興味があって、黒澤さんはその対極にいた方なんですよね。本来の流れとしては大島渚さんや勅使河原宏さんとお仕事をするのが自然だったのかもしません。結局お二人とも、後にご一緒するんですが。

―たしかにこうして振り返ってみると、ワダさんと黒澤監督って、じつは「意外」な組み合わせだったんですね。お二人が出会ったきっかけは何だったんでしょうか。

ワダ:知り合いの映画プロデューサー、松江陽一さんが製作した黒澤監督『デルス・ウザーラ』(1975年)の発表会にお邪魔して、その後のパーティーで黒澤さんを紹介していただきました。そのときに「私、黒澤さんの映画で『蜘蛛巣城』(1957年)が一番好きです」って言ったんです。あれはシェイクスピアの『マクベス』の見事な翻案でしょ。そうしたら黒澤さんが「じつは『リア王』をやろうと思ってるんだ(『乱』は『リア王』を時代劇に置き換えて映画化したもの)」っておっしゃったので、つい「ぜひ、私が衣装をやりたいです!」って反射的に言ってしまって(笑)。それを黒澤さんが覚えてくださっていて、実績もない私を大抜擢してくれたわけですよ。

―「『蜘蛛巣城』が好き」の一言が大変な運命を決めたんですね。1986年には『乱』で『アカデミー賞』衣装デザイン賞を受賞されますが、状況は変わりましたか?

ワダ:いえ、変わりません。

―たしかにお話を聞いていると、「人から人へ」という本質はずっと変わらずにいらっしゃいますね。

ワダ:そう、同じなんですよ。やっぱり「いい人に出会ってきた」ってことだと思います。ピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペローの本』(1991年)の衣装をやることになったのも、キース・カサンダーっていうプロデューサーとたまたま出会ったことがきっかけで。以前から私、ピーターの映画がとても好きで、『ZOO』(1985年)とか『建築家の腹』(1987年)とか、初期からずっと観ていたんですよ。そのピーターの作品で、シェイクスピア『テンペスト』を基にしてる映画と聞いたら、これはもうやるしかない。最初はマント3着の契約だったんですけど、結局全部やることになって(笑)。

―「出会い」も能力だと思うんですよ。自分の素養や蓄積、あるいは人間性が「出会い」の質とその連鎖を決めている。

ワダ:まあ、運が良かったのかもしれませんね。

■仕事というのは、いつも「初めまして」から始まるもの。そこからチームで1つの作品を作り上げていく。

―『メアリー・ステュアート』は「女性の生き方」がテーマにもなっている作品ですが、ワダさんが妻となり、1児の母となりながらも前衛芸術シーンの渦中にいらした頃って、当時の「女性の生き方」の常識とはずいぶんかけ離れたものだったのでは?

ワダ:あまり深刻に考えてなかったんでしょう(笑)。当時は2Kの公団住宅で暮らしていたし、収入がすごく少ないときもあった。戦争中、大阪の実家が丸焼けになっちゃった頃から、あんまり物に執着しない生活スタイルが身についたのかもしれません。すべては移ろい、変わってゆくものだと思っているし、私も最終的には野垂れ死にかな、と思ってるので(笑)。

―ワダさんはずっとフリーランスで、会社組織に属されたことは一度もないらしいですね。最初の『青い火』からすると……キャリア何年ですか?

ワダ:この3月で58年ですね。でも『キネマ旬報賞』のトロフィーデザインの仕事しかなかった年もあるのよ(笑)。私のやりたい仕事が、必ずしも順序良くできているわけではないんです。他の仕事と重なっていたり、タイミングが良くない場合もあるし。私、だいたいラッキーなんですけどね。

―でも『乱』以降、本質は変わらないにせよ、活躍の舞台がワールドワイドになりましたよね。

ワダ:それはそうですね。外国の若いスタッフは、キャリアアップのために自分でコネクションを作ろうとしているのをすごく感じて、話していると、「あなたはどうやって成功したのか?」って聞かれるんだけど、自分自身では「成功」だなんて全然思っていないんですよ。仕事というのは、いつも「初めまして」から始まるもの。そこからチームで1つの作品を作り上げていく。チームが良い雰囲気であれば、私もとてもハッピーですし、その意味では本当にいい人たちと出会ってこれました。もう78歳だからね(笑)。いつ引退したっていいんだけども。

―いや、生涯現役でお願いします(笑)。

ワダ:昨日もまた依頼の電話が掛かってきましたからね(笑)。でも本当にありがたいこと。必要としてくれる人がいるうちは、精一杯頑張りますよ。

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