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2015年3月19日、澎湃新聞網は、湖北大学政法・公共管理学院院長で国際政治学専門の劉文祥(リウ・ウェンシアン)氏による「日本への回答:“1969年地図”はちょうど良いことに釣魚島(日本名:尖閣諸島)が中国の物であることを証明している」と題するコラムを掲載した。以下はその概要。
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日本の外務省は16日、1969年に当時の中国の「国家測絵総局」が発行した地図をウェブサイトに掲載。地図では、尖閣諸島や魚釣島について、現在中国政府が使用している名称ではなく、「尖閣群島」という日本名で表記されている。外務省は、同地図は中国政府が尖閣諸島を日本の領土と認識していた証拠であるとみている。
「尖閣群島」の文字は何を証明するのか。1900年、日本の黒岩恒氏は英語名の“Pinnacle Islands”から、魚釣島とその周辺の島々を「尖閣列島」と名付けた。しかし、一定の期間、日本国内ではこの呼称やその範囲が定まってはいなかった。
1895年に日中が下関条約を結び、尖閣群島は台湾に付随する島しょとして日本に割譲された。そのため、1900年に日本が尖閣諸島と名付けてからは、その名称が国際的に広く使用された。1945年のカイロ宣言とポツダム宣言により、魚釣島と付近の島しょは法的には台湾と共に中国に復帰したが、成立直後の中華人民共和国には実地調査をする能力はなく、日中の国交も正常化されていなかったことから、中国や台湾の一部の地図に「尖閣」と表記されているのは何ら不思議ではない現象なのだ。
これは単純に地名を踏襲しただけであって、領土主権とは何ら論理的な関係性はない。その上、1969年の地図では赤尾嶼、黄尾嶼と中国の呼称が記されており、日本が命名した大正島、久場島とは表記されていない。このことからも、地名が標準化されていないことがわかる。しかし、この地図の重要なポイントはそこではないのだ。(続く)(翻訳・編集/北田)