社会そのほか速
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山崎清剛さん(68)が1人で暮らす岩手県大槌町の仮設住宅の部屋には、たくさんの写真が飾られている。「きれいでしょ」。津波で行方不明になったままの妻治子さん=当時(64)=の写真をじっと見詰め、ほほ笑む。
大槌中学の同級生だった。愛らしい笑顔に真面目な性格。陸上も得意で人気者の治子さんに「一目ぼれだった」と山崎さんは照れ笑いする。親から家業の漁師を継ぐよう言われたが、「この人しかいない」と24歳で婿入りした。治子さんはいつも明るく、3人の子どもの習い事や大学受験などを優先し、自分の身なりは質素だった。
2011年3月11日、治子さんは自宅の玄関先で実母と一緒に津波にのみ込まれた。「おかげで助かった」。1人の女性が涙ながらに教えてくれたのは、アパートの大家でもあった治子さんが地震直後、入居者に避難を呼び掛けていた姿だった。
がれきの中や遺体安置所を捜し回ったが、焼けた遺体をあちこちで目の当たりにし、「もう無理だ」と断念。DNA型鑑定や、県警公表の身元不明者の似顔絵にも手掛かりはないまま月日が過ぎ、「ひとりぼっちになった」と寂しさが募った。
そんな中、親しくしていた友人が、治子さんから受け取った手紙やクリスマスカードなどを送り返してくれた。「小柄なのに大きな字を書くんだった」。特徴を思い出し、顔や姿が目に浮かんだ。米国に住む義妹からは写真やビデオが届き、映像には物まねで家族の笑いを誘う治子さんが写っていた。「形見と呼べるものが何一つ無かった」山崎さんは、治子さんと二人でいると感じられる瞬間がうれしいと言う。
仮設住宅では台所に立つ。料理上手だった治子さんの味付けは「舌が覚えている。これも形見だね」。11日は治子さんの誕生日。仏壇には毎朝「おはよう」と声を掛けるが、お骨がない違和感は残る。もっと捜せばよかったと後悔もある。「どんな形でもいい。待っている」。