社会そのほか速
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
防毒マスクなどの完全装備でオウム真理教施設の家宅捜索に入る警視庁の捜査員ら=1995年3月22日、山梨県の旧上九一色村
1995年の地下鉄サリンなどオウム真理教事件の捜査を指揮した当時の警視庁トップ、井上幸彦・元警視総監(77)がインタビューに応じた。「オウムは宗教団体を隠れみのにテロ集団化した。監視や目配りが十分でなかった」と振り返るとともに、「オウムは存続している。決して事件を風化させてはならない」と強調した。地下鉄サリン事件は20日で発生から20年になる。
井上氏はオウムの暴走を許した要因の一つとして、「宗教団体に対しては動向監視が難しい面があった。(警察と行政による実態把握が)信教の自由の侵害と受け取られかねないという意識が、オウムを増長させてしまった」と語る。
地下鉄事件前年には長野県で松本サリン事件が発生。捜査体制が最も充実している警視庁が早くオウム本体を捜査していればとの声もあったが、井上氏は「都道府県警の管轄の壁があった」と説明する。
警視庁が本格的に動けたのは95年2月、東京都内で起きた目黒公証役場事務長だった仮谷清志さん拉致事件。「被害者を救出するにはオウムの拠点を全て把握し、捜索する必要があった。オール警視庁で全力で捜査を進めた」と話す。
同年3月中旬にはオウム一斉捜索の「Xデー」を協議し、同22日に決まった。しかし、その2日前に地下鉄サリン事件が起きた。当日、出勤途中の井上氏の公用車を、サイレンを鳴らしたパトカーが追い越した。登庁後も「爆弾テロ」などの情報が飛び交う。総監室に刑事部長が飛び込んできた。「鑑定の結果、サリンの反応が出ました。発表しますか」。「すぐに発表しろ」と命じた。「人命に関わることなので即断した」と話す。
首都での無差別殺傷テロは警視庁に衝撃を与えた。2日後の一斉捜索について、「サリンが出た以上、相手の出方を見た方がいいのでは」との意見もあったが、井上氏は「方針を変えれば『麻原(松本智津夫死刑囚)の脅しに屈した』と受け取られる」と、予定通り実施した。
地下鉄事件の約2カ月後の5月16日には、山梨県旧上九一色村の教団施設「第6サティアン」で松本死刑囚を逮捕した。「3月の捜索で、麻原はサティアンから出られなくなり、逮捕につながった。強制捜査が形勢を変えた」と話す。
一連のオウム事件を教訓に警察法が改正され、オウムや暴力団のような広域組織犯罪については管轄区域外で発生した場合でも、都道府県警に捜査権が認められた。
井上氏は危機管理の観点からオウムとの闘いをテーマに講演を重ねている。「何が起きたのか、事件を知らない若い人たちがオウムに引き込まれないよう語り継ぐ」と力を込めた。