社会そのほか速
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あの日、津波が発生した時間帯は多くの学校で授業中、または授業を終えて下校していた頃でした。宮城県名取市の閖上中学校も悲劇の舞台となった1つです。今も傷跡の残る現場から報告です。
宮城県名取市の旧閖上中学校では、犠牲になった人たちの霊を悼む灯籠が灯されています。この地区では、津波でおよそ750人の命が失われました。鎮魂と祈りに包まれている旧閖上中学校ですが、この場所での追悼式典は今年で最後となります。復興事業に伴う、かさ上げで校舎が解体されるためです。
被災した校舎をめぐっては、解体か保存かで揺れ動いている地区がまだあります。その中で、自分たちの意見をはっきりと語り始めた子どもたちもいます。
児童ら84人が犠牲となった石巻市立大川小学校。津波の爪あとは、その校舎にいまも色濃く残されています。震災から4年、地元住民でつくる復興協議会が、この校舎周辺を追悼の公園として整備することを検討しています。
それに向けて、先日校舎のあり方を検討する会合が開かれ、大川小出身の子どもたちも参加しました。只野哲也君(15)もその1人です。
「友達がばっと、波の中に飲まれていった」(只野哲也君〔当時11〕)
当時5年生だった只野君は、あの日、津波に飲まれながら奇跡的に助かりました。しかし、3年生だった妹と母、それに祖父を失いました。中学生となった只野君は、「母校の校舎を残すべき」と考えるようになっていました。
「被災した建物を見れば強く心に残る。伝えていかないといけない」(只野哲也君〔当時13〕)
去年の春ごろから、只野君ら卒業生が定期的に集まり、校舎のあり方を考えるようになりました。
「あの形のまま残してほしい」(卒業生 佐藤そのみさん)
去年10月には、その集まりを協議会の事務局が訪ね、解体して絵を描く案もあることを説明しましたが・・・
「(校舎を)痛々しい姿で見るよりは、あのままの絵を描いてもらって残したらどうなのかなと」(復興協議会の事務局長)
「絵だと分からない。コンクリートの校舎を壊すくらいの威力があるとか」(只野哲也君)
只野君の保存への思いは変わりませんでした。
今月7日、只野君は中学校の卒業式を迎えました。式の後、以前の自宅近くにある霊園を訪れました。
「これからも高校あるので、それに向けて頑張りますと報告しました。自分が生まれたふるさとなので、いくら重機が入って前の原形がとどまっていない状態だが、ふるさとには変わりない。…