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雲の切れ間から光が差し込むと、眼前の志津川湾がキラキラと輝いた。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の高台。「俺はここで生きていくんだ」。あれから4年。近く再オープンする鉄筋3階建ての新たな民宿を背に、佐々木昌則さん(48)は冷たい空気を吸い込んだ。【中里顕】
仙台市でサラリーマンをしていた約10年前、脳腫瘍で65歳で亡くなった父徳司さんから同町袖浜地区にあった鉄筋2階建ての民宿「向(むかい)」とカキ養殖を引き継いだ。「素人同然」だったが、養殖は漁師仲間がロープの結び方から教えてくれた。民宿の運営は母親のはる子さん(74)に教えを請い、妻(48)と一緒に軌道に乗せた。
そんな中で起きた東日本大震災。津波で民宿と自宅、船、養殖場は全て流され、祖母の興衛(ともえ)さん(当時92歳)が命を落とした。先のことは考えられなかった。妻の実家に近い広島市の被災者用市営住宅に小中学生の子ども3人と避難。市の嘱託職員や道路工事の臨時警備員をしながら、生計を立てた。
家族は次第に広島での生活になじんでいった。家での会話も「じゃけえ」と広島弁になった。ただ、佐々木さんの脳裏からは、南三陸に残った人たちのことが離れなかった。「俺は逃げたんじゃないのか」。その思いが消えず、正社員の働き口を紹介されても、面接を受ける気になれなかった。
震災から2年となった2013年3月。子どもたちが学校に行き、妻と2人きりになった時、思いを初めて打ち明けた。「南三陸に戻りたい」。カキやワカメ養殖の共同事業体が発足しており、収入のめどはあった。妻は「故郷だもんね。私でもそうする」とだけつぶやいた。納得したのかどうかは分からない。結局、単身で南三陸に向かい、母が住む仮設住宅に入居。昨夏には長男が合流した。
「以前のように、新鮮なカキを出す民宿をやりたい」。だが、再建には金がかかった。国と県の補助を受け、所有していた土地を売ってもなお約4000万円が必要という試算。想定より1000万円以上高かったが、「ここで逃げたら一生後悔する」と歯を食いしばって金融機関に頭を下げた。
努力が実り、昨年9月に着工し、14日ごろに再オープンできる見通しが立った。心機一転を図り、名称は「明神崎荘」に変える。場所は以前より約100メートル高台になったが、宿から見える美しい景色は変わらない。中古の船を買い、今後は自力でのカキ養殖も再開する。…