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「いないいないばあ」「モモちゃん」シリーズなど、絵本や児童文学作品が0歳児から大人まで幅広く親しまれた児童文学作家の松谷みよ子(まつたに・みよこ、本名・美代子=みよこ)さん。2月28日に老衰のため89歳で亡くなったが、ゆかりの人々からは惜しむ声が相次いだ。
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◇評伝
「ただ、生きた証しを残したかった」
89歳で亡くなった松谷みよ子さんの創作の原点は、70年以上前にさかのぼる。1941年12月8日。女学校の朝礼で太平洋戦争の開戦を知り、「ガタガタと震えたのは、寒さからだけではなかった。不安で潰されそうだった」。死と隣り合わせの日々。小さなメモ用紙に童話を書きつづった。
55年に結婚。人形劇団を主宰する夫とともに集めた民話を基に童話を作ったが、社会の注目を集めたのは、長女が幼かった時に、せがまれて書いた「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズ(全6巻、講談社)だ。64年に第1巻が発売されてから完結まで約30年を要した。
仕事と子育ての両立に迷いつつ、子どもと懸命に向き合い、離婚など逆境を乗り越える母子の姿は、松谷さん自身の姿を投影した。主人公の「モモちゃん」は、流産した子に名付けていた「モモコ」にちなむ。
「この世に生まれなかった子への鎮魂の思いを込めた」と話していた。
子どもが初めて話した日のこと、水ぼうそうになったこと、注射をした時のこと……。長女の育児メモをひもときながらの作品づくりだった。実体験に基づいていたからこそ、生き生きとしたモモちゃん、アカネちゃんが読者の心に沿った。
最終巻には、父親の遺骨を母子が土に埋める場面がある。「子どもを取り巻く現実には厳しさもある」と必ずしもハッピーエンドではない児童文学も追求していた。
戦争をテーマにした作品には、広島の被爆者をテーマにした「ふたりのイーダ」や、ナチスのユダヤ人迫害などを描いた「私のアンネ=フランク」などからなる「直樹とゆう子の物語」シリーズ(全5巻)がある。平和への思いは、著作活動をするほどに強くなった。2008年に発足した「子どもの本・九条の会」の代表団の一員になり、会合にもたびたび足を運んでいた。
以前、取材した時のこと。「龍の子太郎」の著作秘話を聞くうちに「食っちゃ寝ばかり」の太郎に、記者の息子のことが重なり愚痴が出た。松谷さんは「なまけものは大成するから遊んでばかりいても大丈夫」と、笑い飛ばしてくれた。豊かなその笑顔に、多くの読者が包まれただろう愛情があふれていた。【木村葉子】
◇「子の世界、そのまま」ゆかりの人々、悼む声
松谷みよ子さんのゆかりの人々からは、惜しむ声が相次いだ。
児童文学作家のあまんきみこさんは「大先輩で、大きな星だった」と寂しげに語った。松谷さんとあまんさんは、共に故坪田譲治氏が主宰した「びわの実学校」で創作活動に励んだ。仲間たちと東北を旅行していたさなか、松谷さんは「原稿を書き上げた」とすっきりした顔をしていた。「旅をしながら作品も完成させるなんて」と感服したという。松谷さんは「ふたりのイーダ」など戦争にまつわる作品も手がけた。「戦争に反対しなければ、という意識が強かったのでは」と言う。
小学生の時に「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズを読んで作家を志した角田光代さんは「あまりにも作品の印象が強く、私のなかで生きているので、作者がいなくなったという実感は持ちにくい」と語る。「モモちゃんの見る世界を私も見ていた。子どもの見る世界が、そのまま書かれていて、その点にひかれたと思う」と振り返る。
松谷さんが選考委員を務めていた野間児童文芸賞を2012年に受賞した児童書作家の石崎洋司さんは「作者名がなくても読めば分かるような文章で、先輩の作家たちから『松谷節』と呼ばれていた」と賛辞を贈る。
松谷みよ子事務所によると、松谷さんの書籍は手に入りにくくなっているものもあり、4月18日に練馬区東大泉の自宅脇にあり12年から休館していた私設図書館「本と人形の家」を再開、近くに松谷さんの書籍を扱う「本屋」をオープンさせる。
松谷さんの別荘がある長野県信濃町在住で、30年以上親交があったカメラマン、南健二さん(70)は2000年、チェルノブイリ原発事故の取材のためウクライナの現地を共に訪れた。「防護服を着て原発敷地内に入り、担当者の説明を熱心にメモしていた。特に女性や子供の被ばく者を気にかけていた」としのんだ。【五味香織、柴沼均、福富智】