社会そのほか速
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ヴォルフスブルク戦でフル出場したFW岡崎慎司 [写真]=Bongarts/Getty Images
ブンデスリーガ第26節が22日に行われ、日本代表FW岡崎慎司が所属するマインツはヴォルフスブルクと対戦し1-1の引き分けに終わった。
ドイツ紙『Allgemeine Zeitung』が同試合の採点と寸評を発表。フル出場の岡崎には「3」(最高点1、最低点6)と及第点をつけたが、「ゲーゲンプレッシングの先端であり、マインツの戦術システムを支える柱における最初のアタッカーだ。それだけでも、このFWには高い価値がある」とチームへの貢献度を評価した。
■岡崎慎司(マインツ)
フル出場
採点:3
寸評:「ゲーゲンプレッシングの先端であり、マインツの戦術システムを支える柱における最初のアタッカーだ。それだけでも、このFWには高い価値がある。だからこそ、チャンスの数だけで、この日本人選手を評価すべきではないのだが、そうなってしまう(=チャンスの数で評価される)部分もある。そのため、チャンスが全くなかったヴォルフスブルク戦は、若干の減点となった」
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アートの仕事に就く。学芸員やギャラリスト、インディペンデント・キュレーター、パブリッシャー、ジャーナリストなどさまざまな仕事はあるけれど、「どうすればなれるのか?」と問われると明確な道筋を答えるのは難しく、一般的に「アートの仕事=狭き門」というイメージは強い。
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だが、本当にそうだろうか? セカンドワークやワークシェアなど、多様な働き方が生まれつつある現代、アートの世界でもスキルや職業のバリエーションは広がりつつあるように思う。たとえば全国で芸術祭や地域のアートプロジェクトが増加していることも、アートの仕事が多様化した1つのあらわれとも言えるかもしれない。
NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ(以下、AIT)が運営する現代アートの学校「MAD(Making Art Different―アートを変えよう、違った角度で見てみよう)」は、そんなアート業界に多くの卒業生を輩出しつつ、今年で15年目を迎える。今回、AITの共同設立者の一人である小澤慶介と、美術家の森弘治を招き、近年のアートの環境を巡る対談を行った。イギリスとアメリカで美術教育を受けた二人の対話から、現在のアートシーンにおける「働き方」が見えてくる。
■日本には、アートの動向や展覧会について気軽に話し合う場がないことに気が付いて、MADを始めました。(小澤)
―小澤さんと森さん、いずれも海外でアートの勉強をされた後、日本に戻って仕事を始められた二人ですが、付き合いはいつ頃からになるんですか。
森:もう10年以上前ですね。アメリカから帰国して日本のアートシーンのことが全然わからなかったとき、知り合いのアーティストから「小澤さんに作品を見てもらったら?」と言われて。それで小澤さんが当時働いていた麹町画廊を訪ねたのがきっかけですね。
小澤:その頃、僕は美術雑誌の仕事を辞めて、麹町画廊という小さなギャラリーのディレクターとして、展覧会や美術の読書会の企画をしていました。僕もロンドン留学から戻ってきたばかりでいろんな人に会いたかったし、もっと勉強したかったから、アートが好きな人たちが集まれるサロンのような場を作りたいと思ったんです。
森:そのときはポートフォリオ(作品集)を見てもらっただけで、それから5年くらい経って、AITのアーティスト滞在制作プログラムに誘ってもらいましたよね。
小澤:ギャラリーを辞めて、AITやMADの活動を始めた頃ですね。森さんには、韓国で滞在制作をしてもらったり、MAD「アーティストコース」のゲスト講師をお願いしていました。
―小澤さんのほうから森さんに声をかけたのはなぜだったんですか?
小澤:アートと社会の関係について、僕たちAITのスタッフが持っていた問題意識と共通する部分を、森さんはたくさん持っている気がしたんですよね。
―どんな問題意識だったんでしょう?
小澤:当時はMADを始めたばかりで、「多角的な現代アートの見方を日本に根付かせる!」って僕らも必死だったから、たとえば「アーティストコース」を受講してくれたアーティストたちに、キュレーターの視点で厳しく批評・講評をしていたんですよ(苦笑)。でも、それじゃダメだと気づいたんです。それで、対話に長けているだけでなく、作り手の視点を持っていて、アーティスト教育にも関心を寄せていた森さんに声をかけました。
―当時、森さんの関心はどのようなところにあったのでしょうか。
森:アメリカの大学院でアートを学んできたので、作品に対する考え方や、批評における日本と欧米の違いを強く感じていましたね。
―日本と欧米で、美術教育がかなり異なるというのは、よく言われます。
森:アメリカの大学院では、他のアーティストや、ディレクターとしてプログラムを動かしている人たちと、かなり濃密なディスカッションをするんです。「作品をどう作ったか?」はもちろん、作品になる以前のリサーチ、どのようにストーリーを構築したのかなどを、社会科学的な視点や他分野の思考を使いながら、徹底的に話し合う。日本でそういうディスカッションは、あまり一般的ではないんですよね。
―森さんは当初、多摩美術大学で日本画を学ばれていたそうですが、そこでは物足りなさを感じていた?
森:疑問には思っていました。徒弟制とまではいかないけれど、師匠がいて弟子がいて、その関係上で技術を学んでいく文化が日本画の世界にはあります。それはそれで大事であるけれど、今考えるとすごく「視覚的 / 造形的」な感じがしていて。「何かを思考して描く」っていうよりも、ただ「そこにあるものを視覚的に表現する」っていうか。
小澤:僕はロンドンの大学院で美術史を勉強していましたが、ある先生なんかは、ほとんど何にも教えてくれないんですよ(笑)。「自分で学びなさい」という感じで、最初の15分で大きな質問を投げかけて、さーっと消えてしまうこともあった。それで学生たちは街の本屋や図書館に行って調べたり、展覧会を観て回って肌で感じ取るんです。リサーチの方向性や思考はそれぞれに委ねられていて、僕は人文地理学を学んでいたので、そこから考えていったりしました。
―小澤さんも、海外で美術教育における「考えること」の重要性に気付かれたんですね。
小澤:ロンドンでは「考えること」が当たり前だったのに、日本には「考えること」に重きを置いた美術教育を行う場がないことに気が付いて、似たような問題意識をもつ友人たちとともにMADを始めたんです。僕は、見えている部分だけではなくて、その背後にある時代思潮などについても考えることが好きだし、アーティストとキュレーターの立場の違いはあっても、森さんとはその部分を共有できるのが大きかったですね。
■アーティストとして食べていきたいと思っていたけど、活動費のことを考えると夢みたいな話だなと痛感したんです。(森)
―アメリカで日本画からメディアアートへと大きな変化を遂げた森さんですが、帰国後はアーティストによるアーティストのための芸術支援システム「ARTISTS’ GUILD」を立ち上げています。
森:2004年に帰国したんですが、当時ドイツで行なわれたフィルムフェスティバルに参加したら、自分のフィーは梱包発送費だけでなくなってしまって(笑)。その他にも個人でHDビデオ機材を買い揃えるのはきついなあとか、そういう辛い思いがいっぱいあって。アーティストとして食べていきたいと思っていたけど、活動費のことを考えると夢みたいな話だなと痛感したんです。
―周りのアーティストも、同じような悩みを抱えていたんでしょうか?
森:はい。友人のアーティストと会うたびに、何かしなければいけないと話していましたね。アーティストは限られた予算内で作品を制作するわけですが、特に映像は撮影場所だったり、出演者だったり、機材だったり、扱う範囲が広いので、色々やろうとするとそのぶんお金を確保しなければいけない。そういう現実的な問題がたくさん見えてきたので、どうにか制作費などを抑える方法はないかと考え、2009年に「ARTISTS’ GUILD」を立ち上げました。
―「ARTISTS’ GUILD」では、アーティスト同士で機材を共有するシステムを構築していますね。
森:52インチのモニターで観せたい作品が、予算がないから32インチで、となってしまうと、表現したいものも表現できなくなってしまいますよね。そういうときに「ARTISTS’ GUILD」で52インチのモニターを用意して、理想の展示状況を実現すると同時に、本来かかるはずの機材費を制作費にまわすことができるようになりました。ただ機材費を安くできるということだけでなく、その仕組み全体をアート業界の人たちに知ってもらうことで、問題意識を共有していこうと努めています。
―「ARTISTS’ GUILD」の活動は、どうやって社会とコミットしていくのかという、アーティスト側の問題意識を感じさせますね。
森:そういうことは他のアーティストともよく話しますし、意識はどんどん高まっているように感じます。
■僕は、人が変わっていく力や、いきいきと生きる力とか、力そのものがアートだと思っているんです。(小澤)
―アートが社会とどう関わっていくかというテーマは、いろんなところでされている議論でもありますが、欧米と日本を見比べて、あらためて気が付いたことはありましたか?
森:帰国した当時は、「視覚的 / 造形的」なビデオアートを作る作家が多いと感じました。帰国直後に参加した『Have We Met ? 見知らぬ君へ』展(国際交流基金フォーラム、2004年)では、プラカードを持って女性専用車両に関するモノローグを語りながら役者が歩くという、社会への問題意識を反映した映像作品を展示したんですが、賛否両論でさまざまな反応がありました。日本でビデオアートとされるものとそうでないものの違いを考えるいい機会でしたね。
小澤:僕もその作品を観たんですが、「むしろ、アートってこうじゃない?」と共感しました。たしかに、当時の日本のビデオアートって、動きや造形といった視覚的な要素を表現するものだとされていて。でも、森さんの作品は画面の中で完結せず、観る人の想像力を作品の外の社会空間に飛ばしたいという意思を感じましたね。
森:自分の持っている社会的な問題意識からリサーチを経て、映像作品として展開していくことを考えていたんです。そういう意味では、小澤さんがMADで伝えていこうとしている「どのように思考して、多角的な視点からアートを観ていくのか」という部分とは、共通点があると思います。
―MADはアーティストだけじゃなく、キュレーターやギャラリスト、ライターなど、さまざまな形でアートの仕事に携わりたいと考えている人が受講しています。アートと社会との接点というのは、小澤さんたちにとっても重要なテーマでもあるのでしょうか?
小澤:そうですね。ロンドンの大学院では、一度社会に出て経験を積んでから通う人が多いので、じつは僕が一番若かったんです。実社会で積んだ経験がディスカッションにも反映されるから、内容も具体的で面白くて。学部からすぐ大学院に行くと、まだ実社会との回路が開いていない状態なので、抽象的な議論の積み重ねになっていきがち。MADも社会人の受講生がとても多く、閉じたアカデミズムよりも風通しの良い議論ができていると思います。
―具体性がなく曖昧なままで終わってしまうのは、日本の芸術表現の弱点とも言えそうです。
小澤:「アート」を考えるときは、美術館やギャラリーのような枠組みとか、制度的なものを頼りにすることが一般的。だけど僕は、人が変わっていく力や、いきいきと生きる力とか、力そのものがアートだとも思っているんです。社会彫刻を提唱したヨーゼフ・ボイスではないけど、すごくクリエイティブな消防士がいてもいいですよね。「この消火方法はおかしいからこうしよう!」みたいな(笑)。だけどイチイチ考えないほうがラクだから、惰性的に物事を見てしまうわけだけど、きっとそこにアートの種はないんですよね……。これは自分に対する戒めでもあるんですが(笑)。
■自分でフィードバックを繰り返しながら、「アートで何かできるんじゃないか」っていう着地点を見極めていくことが必要なのかもしれません。(小澤)
―アートと社会の関係のお話ですが、「アートの仕事」についても詳しくお伺いできればと思います。お二人とも現場で15年以上にわたって活動されてきたわけですが、これからのアート業界ではどんな仕事や役割が求められていくと感じていますか?
小澤:特にここ10年は、芸術祭やアートプロジェクトが全国各地でたくさん始まって、いろんな意味で間口は広くなってきていると思います。より社会との関係は密接になっているし、アートが扱う範囲も広くなっているから、その状況をどうマッピングしていくのかが、関係者のみならず鑑賞者にも求められている。今年度のMADプログラム「アドバンス・スタディーズ」でも、『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』について、現地に住んで研究を行っている文化人類学が専門の兼松芽永さんや、比較文学者でもある小説家の小野正嗣さんに講師に来ていただくなど、いろいろな角度からアートへのアプローチを試みています。
森:僕が普段活動する、いわゆるメディアアートの現場ではインスタレーション作品が増えていて、エンジニアの協力が不可欠になってきています。もちろん技術を持っている人は探せばいるんだけど、アートという目線から一緒に考えてくれるエンジニアは本当に少ない。
小澤:それはありますね。僕が関わった映像インスタレーションの展示設営にあたって、アーティストの要求を実現できるエンジニアが見つからなくて、森さんに相談したくらいです。
森:そうでしたね(笑)。
―いろんな表現やメディア、価値観があって、かつてはアートとは言い難かったものも作品になりうる状況になりました。一方で、アート自体が液状化した状態ともいえて、その中で活動していくのは難しい部分もあったりするのでは、とも思ったのですが。
小澤:でも逆に言えば、自分が「こうじゃないか?」と思ってやってみたことが、ずれて返ってくる面白さもありますよね。思っていたところとは違う部分を褒められるとか。そうやって液状化しながらも裾野が広がっていく中で、フィードバックを繰り返しながら、「アートとは何か?」「アートで何かできるんじゃないか?」という自分なりの着地点を見極めていくことが必要なのかもしれません。
―自分なりにアートで社会に対して何ができるのか、その意義さえ掴めていれば、いろんな仕事の可能性が現れてくるのかもしれませんね。小澤さんも、そういったフィードバックを繰り返してきましたか?
小澤:そうですね。というのは、自分がキュレーターになるとは思ってもいませんでしたから。美術雑誌で働いてみたり、周りに面白そうなアーティストがいたから小さな展覧会を企画してみたり、それだけじゃ食べていけないからアートフェアの事務局で働いてみたり。並行して、AITやMADみたいなオルタナティブな活動に興味を持ち、最近では十和田市現代美術館のキュレーターとして展覧会を企画したりして。その時々では必死なんですが、今思うと不思議な感じがします。でも、試してみないとわからないことは多いですよね。
WBA戦で先発出場したMFランパード [写真]=Getty Images
マンチェスター・Cに所属する元イングランド代表MFフランク・ランパードが出場機会の少なさに不満を覚え、今月中のクラブ退団を決断した模様だと、イギリス紙『デイリーメール』が報じた。
昨シーズン限りでチェルシーを退団したランパードは、MLS(メジャーリーグサッカー)のニューヨーク・シティに加入。同クラブが2015シーズンからMLSに参加するため、昨年12月までのレンタルでマンチェスター・Cに移籍していた。
その後、チームメイトのコートジボワール代表MFヤヤ・トゥーレがアフリカ・ネーションズカップでチームから離脱したこともあり、ランパードはピッチ内外での貢献度を評価され、チームで必要不可欠な存在となった。そのため、マンチェスター・Cは同選手との契約を今シーズン終了まで延長していた。
しかし、ランパードは公式戦30試合に出場しているが、大半は10分強の途中出場。そのため、プレー時間を欲し、今月開幕したMLSのことも気になっているランパードは、今シーズン終了を待たずにNYシティに参加を希望しているという。なお、MLSの移籍マーケットは5月までオープンしており、ランパードのNYシティ加入に問題はない。
同選手は、21日に行われたプレミアリーグ第30節のWBA(ウェスト・ブロムウィッチ)戦で、今シーズン2度目の先発出場をしていた。
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ゴールを決めた岡崎(左)と香川(右) [写真]=Borussia Dortmund/Getty Images, Bongarts/Getty Images
ブンデスリーガ第26節が20日から22日にかけて各地で行われた。同節をもってインターナショナルマッチウィークに突入するため、3月の全日程が終了。今月はブンデスリーガでプレーする日本人選手たちが合計で6ゴールを獲得した。
7日に行われた第24節のバイエルン戦で、ハノーファーに所属するMF清武弘嗣が、味方からのスルーパスを受けて、ドイツ代表GKマヌエル・ノイアーから今シーズン4点目となるゴールを奪った。
さらに同日、ボルシアMG戦でマインツに所属するFW岡崎慎司は、スローインを味方が繋いだところに、ヘディングシュートを叩き込んだ。岡崎は10試合ぶりとなる今シーズン9得点目を決めた。この日を皮切りに、日本人選手が各節で活躍。
翌日の8日にケルンはフランクフルトと対戦。63分から途中出場したFW大迫勇也が、アンソニー・ウジャーのパスで抜け出してエリア内で、落ち着いてGKとの1対1を決めた。大迫は昨年8月30日に行われたリーグ戦第2節のシュトゥットガルト戦以来となる今シーズン2ゴール目を獲得した。
第25節では、14日に行われたアウクスブルク戦で岡崎が、味方のクロスをトラップから右足を思い切り振り抜き、ゴールを決めた。岡崎は2試合連続ゴールで、2年連続2桁得点を達成している。
また同日に、ヘルタ・ベルリンに所属するFW原口元気が待望のブンデスリーガ初ゴールを記録。シャルケ戦で69分から途中出場した原口は、味方のシュートを相手GKが弾いたところを詰めて、こぼれ球を押し込んた。
そして第26節、ドルトムントに所属するMF香川真司に、昨年9月13日に行われたリーグ第3節フライブルク戦以来となる約6カ月ぶりの得点が生まれた。21日のハノーファー戦、香川はマルコ・ロイスからの折り返しをゴールに流し込み、今シーズン2点目を獲得。香川はその後、ピエール・エメリク・オーバメヤンのゴールもアシストしている。
2015年に入って日本人選手の得点は、シュトゥットガルト所属のDF酒井高徳が2月14日のホッフェンハイム戦で決めたブンデスリーガ初ゴールのみだった。しかし、3月には合計で6ゴール。日本人選手の活躍でヴァイッド・ハリルホジッチ監督による新生日本代表にも弾みとなった。
■3月にブンデスリーガでゴールを決めた日本人選手
▼岡崎慎司
2ゴール 対ボルシアMG戦(7日)/対アウクスブルク戦(14日)
▼清武弘嗣
1ゴール 対バイエルン戦(7日)
▼大迫勇也
1ゴール 対フランクフルト戦(8日)
▼原口元気
1ゴール 対シャルケ戦(14日)
▼香川真司
1ゴール 対ハノーファー戦(21日)
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昨年から世間や国会を騒がせているカジノ解禁問題。今国会でもカジノを含む統合型リゾート(IR)の運営を解禁するための法案(通称:カジノ法案)の成立が不透明な状況の中、業界や地方自治体からはカジノ解禁に期待する声が多く上がっている。確かにカジノ誘致が自治体へ及ぼす経済効果は計り知れないが、その弊害も数多く指摘されている。
1967年、韓国では外貨獲得のためにカジノが解禁され、当初は韓国人も使用できたが、さまざまな不正が発覚し、2年後には外国人専用となり韓国人は出入り禁止になってしまう。その後、70年~90年にかけてカジノ建設ラッシュとなり、外国人専用カジノが全国に16カ所も建設されたのだ。2000年になり、ようやく韓国人でも楽しめるカジノ「江原ランドカジノ」がオープンし、1年目に約170億円もの利益を上げた。
「一時は炭鉱の町として栄えていた江原に活気を取り戻すべく、カジノを誘致しました。毎年300万人の人々が訪れるようになり、街に活気は戻ったのですが、カジノ中毒に陥る韓国人が続出したのです」(韓国一般紙記者)
韓国政府は月15回までの入場制限を定め、2カ月続けて15回通うと「賭博中毒センター」でのカウンセリングが義務付けられ、現在までに約5万人の人が利用したという。
「江原ランドカジノの近くには質屋が立ち並び、異様な雰囲気が漂っています。貴金属や宝石を売り払うならまだしも、自分が乗ってきた自動車を売り払う人もいます。今、問題になっているのは“カジノホームレス”。カジノで財産を失った人が行く当てもなく、カジノ周辺に住み込み、その数は100人以上に上るといわれています」(同)
全国に17カ所もあるのに、韓国国民が使用できるのは1カ所のみ。にもかかわらず韓国ではこれだけの問題が出てきていることを考えれば、日本でカジノを解禁することによる弊害は国民的議論が求められているといえよう。
(文=編集部)