社会そのほか速
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イタリア・セリエAのインテルに所属するスイス代表のMFジェルダン・シャキリは、現地19日に行われるミランとの“ミラノ・ダービー”に向けて意気込んでいることを伊複数メディアが報じている。
インテルは、リーグ30節終了時点で勝ち点41の10位に沈んでいる。しかし、今週末の試合は同じ街に本拠地を置くミランとの伝統の一戦であり、今冬にバイエルンから加入したシャキリにとって初のダービーとなるため、シーズン中の結果とは関係ない白熱したゲームを期待しているようだ。
試合前の会見に臨んだシャキリは「コンディションは良い。スタジアムは満員だろう。我々にとってサポーターの存在は重要だ。ダービーに限らずね。インテリスタは特別だ。最高の雰囲気になる。ミランを倒して、サポーターを満足させたい。私はこれがすごく大事な試合だと理解している。
イタリアとドイツのサッカーは異なる。だが、順応するのに問題はなかった。ロベルト・マンチーニ監督からは違いをつくることを期期待されている。そのためにはチームメイトの助けが重要だ。
インテルは近年ベストなシーズンを送っているわけではないが、我々のゴールは過去の栄光を取り戻すことであり、チャンピオンズリーグで戦うことだ。それが本来の居るべき場所だからね」とコメントした。
インテル対ミランの一戦は、日本時間20日の午前3時45分にキックオフとなる。
初めて2桁勝利を達成したのはプロ入り5年目、01年のことだった。
「来年、期待しているからな」
プロ入り後、伸び悩む黒田を覚醒させる転機は前年の秋季キャンプで、01年からチームの指揮を執った山本浩二監督からのそんなひと言だったという。
西山氏も当時の黒田の変化を認める。
「入団当初から、こっちが気を抜くと捕れないっていうほどの速さはあったよ。でも、150キロのまっすぐを待っている打者に、スライダーやフォークを痛打されることもあった。緩急を使えていなかったからだけど、ここから黒田は違ったね。カーブを覚え、さらにシュートの習得にも取り組んだり、新しい球種をマスターしていった。あれだけのストレートがあったら、それに過信するピッチャーもいるけど、黒田は黙々と練習していたからね」
05年、チームは最下位に終わったが、黒田はキャリアハイの15勝をあげ、最多勝、さらにゴールデングラブ賞、ベストナインにも選出された。06年も13勝をあげ、さらに1.85という驚異的な防御率を記録する。
今岡氏が当時の印象を語る。
「プロに入ってワンランク、ツーランク上のレベルに到達したピッチャーだと思う。黒田の球はズドンとくる剛球で、外国人のような球質だった。本人は真ん中を目がけて投げているのかもしれないけど、打者からするとアウトコースにちょっとスライドしたり、インコースにシュートしたり。日本人は回転がきれいなキレのある球を投げるんだけど、黒田はその反対。非常にやっかいでした」
ピンチになればなるほど一番の武器である150キロを超えるまっすぐで勝負し、気迫に満ちた投球でセ・リーグの強打者たちをねじ伏せてきた。
そして日本球界を代表するエースへと成長した黒田は、07年にFA権を行使してメジャー移籍を表明。その後、ドジャース、ヤンキースで7年間もの間、主力として投げ続け、5年連続で2桁勝利をあげた。そして、今年、広島への復帰を決断したのだ。
黒田はインタビューの中で、メジャーで投げ続けられた理由を聞かれて、次のように答えている。
「ピッチングに対する発想を日本の時と切り替えられたこと。メジャーに来た時から、力でねじ伏せる投球スタイルを貫くことは難しいと思っていました」
薮田氏が語る。
「黒田の強みは柔軟性です。日本にいる時はまっすぐでどんどん押していくパワーピッチャーのイメージだったが、メジャーに行ってからはツーシームを覚えるなど、投球スタイルが大きく変わりましたよね。…
阪神の能見は直球、変化球がさえ7回1失点で今季初勝利を挙げた。ゴメスが一回に先制打、1―1の六回に勝ち越し適時打を放った。巨人は連勝が5でストップ。田口は六回途中まで2失点でプロ初黒星を喫した。
プレミアリーグで2連敗を喫し、4位に順位を下げているマンチェスター・Cが、今シーズンのある仮想順位で首位を走っていることが明らかとなった。17日付のイギリス紙『デイリー・ミラー』が報じた。
スポーツデータ会社『オプタ』の統計を基にした仮想番付は、「枠内に放ったシュートがすべて決まっていた場合」のゴールへの積極性を示すランキングとなっており、このデータでマンチェスター・Cは2位アーセナルと勝ち点11差で首位に立っている。
現在、実際の順位ではリーグ第31節までを終え、1試合消化数が多い2位アーセナルと勝ち点13差で首位を快走しているチェルシーは、同仮想番付で3位。3位のマンチェスター・Uは仮想番付では6位、日本代表DF吉田麻也が所属するサウサンプトンは同番付で4位につけている。
2連敗でマヌエル・ペジェグリーニ監督の解任論も囁かれ始めたマンチェスター・Cだが、シーズン残り6試合で巻き返しを図れるかが注目される。
黒田は大学時代に150キロの球速をマークし、一部で注目されるようになってはいたが、大学日本代表に選ばれることもなかった。黒田は著書「決めて断つ」の中で、プロ入り前の心境をこう述懐している。
〈当時は逆指名制度があったので、大学生でも実力があれば球団を選ぶことができた。けれど自身にそこまでの実力が身に付いているとは到底思わなかった。僕としては逆指名なんておこがましく、プロに入れてもらって、入ってからなんぼの世界だと思っていたから、どの球団だって関係なかった〉
大学時代は無名に近い存在だった黒田だが、いち早く目をつけていたのが広島の苑田聡彦スカウト(現・スカウト統括部長)である。広島から遠征し、神奈川県伊勢原にあるグラウンドにたびたび足を運んでいたという。苑田スカウトの熱意にほだされ、恩義を感じた黒田は、96年のドラフトで広島を逆指名(ドラフト2位)。プロ野球選手としての第一歩を踏み出した。
「97年1月にドミニカのカープアカデミーに自主トレに行ったんですよ。当時、僕は広島の正捕手だったんですけど、球団からは『(黒田と同期入団で逆指名のドラフト1位だった)澤崎(俊和)のボールを受けて来い』と言われてね。他にも若いピッチャーが参加したけど、そこに黒田の姿はなかった。澤崎のほうが明らかに、将来のエースとして期待されていました」(西山氏)
同年2月のキャンプでは1軍に呼ばれた黒田だったが、オープン戦が始まると2軍落ち。そこで、さらに黒田はプロの厳しさを痛感する。由宇球場で行われた中日との練習試合での出来事だ。当時、広島の2軍監督を務めていた安仁屋宗八氏が振り返る。
「確か、黒田は次の日が大学の卒業式で、チームから離れることになっていたんです。そこで中継ぎ登板させたら、メッタ打ちされた。2点、3点と失点するたびに、不安気にベンチをチラチラ見るんですよ。でも、僕は自分でまいた種は自分で刈り取れというタイプだから、結局、1イニングで10失点したけど、3アウトを取るまで交代させなかった。ベンチに戻って来た黒田は顔面蒼白になって茫然としていたね」
メンタル面でまだ課題を残し、発展途上だったという。それでもシーズンが開幕すると、ルーキーながら1軍で先発ローテーションを任され、6勝をあげた。ただし2年目はわずか1勝に終わっている。3年目も5勝8敗、防御率は6点台だった。逆指名入団だけに、首脳陣は即戦力として期待していただろうが、その期待を裏切り続けたのだ。
「僕が出すサインに嫌そうな顔をする若い投手もいたけど、黒田はサインどおりに投げてきました。年上の僕に遠慮していると感じることもあった。だから、監督や投手コーチに『黒田は僕と組むと萎縮するんで、他のキャッチャーを使ったほうがいいですよ』と進言したこともあったほどです」(西山氏)