社会そのほか速
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シンガポールの指導者として、いわゆる「開発独裁」の断行により同国の経済的繁栄を実現したリー・クアンユー元首相が23日、死去した。91歳だった。自国に経済的繁栄をもたらした点で特記される指導者だったが、それ以前に、複雑な外交環境下で、シンガポールを「存続」させることに成功したことだけで、極めて大きな功績との見方もある。一方で、人権などについての認識の低さを批判する声もある。
リー・クアンユー。漢字表記は李光耀。1923年9月16日、英国植民地だったシンガポールで生まれた。英国は当時、ペナン、マラッカ、シンガポールなどを「海峡植民地」と称して統治していた。
広東省出身の客家系漢人である曽祖父が1862年、シンガポールに渡った。リー・クアンユーが生まれた当時、一家はすでに家庭内でも英語を使っていたとされる。ラッフルズ大学で学んだが、1942年に日本軍がシンガポールを攻略・占領したために学業を断念。闇市での商売で生計を立てたが、情報関係で日本軍に協力する仕事もした。
戦後は英国に留学し、ケンブリッジ大学で法律学を専攻し、1949年に首席で卒業した。シンガポールに戻ってからは弁護士資格を取得した。所属した事務所の上司が立法審議会選挙に立候補した際に、運動員を務めたことから、政治にかかわることになった。
1954年には人民行動党の設立者のひとりとなり、書記長に就任した。1963年にはすでに独立していたマラヤ連邦に加わったが、マレー人と華人の対立激化や、混乱にともなう猛烈なインフレが発生。リー・クアンユーは事態の収拾に努めたがシンガポールは1965年、マレーシアから「追放」される形で独立を強いられた。
シンガポールは同年中に国連に加盟。67年にはに東南アジア諸国連合(ASEAN)結成4カ国の1つとなる。
マレーシアとの関係悪化に伴う市場の損失。さらに英軍基地撤退による大規模な雇用の喪失で、シンガポール経済は先の見通しが立たなくなった。リー・クアンユーは外資誘致による輸出型工業国を目指した。外資に対する税制面の優遇、安価な労働力の提供で投資環境を整えると同時に、土地や労働、資本資源を政府の厳格な統制下に置いた。空港、港湾、道路、通信などのインフラ建設にも力を入れた。
さらに外国人相手の観光客誘致にも力を入れ、サービス産業で多くの雇用を創出した。
また、「中国国民党が共産党との戦いに敗れた大きな原因は汚職にあった」と認識し、汚職調査局に大きな権限を持たせ、摘発に力を入れた。…