社会そのほか速
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市教委によると、戦国大名・大友宗麟(そうりん)(1530~87年)の城下町だった「中世大友府内町跡」の発掘現場の地層から昨年11月、垂直に伸びる砂の筋が多数見つかった。
京大大学院の竹村恵二教授(地球科学)が分析したところ、大規模な地震の揺れで、地下水の圧力が高まり、地下水交じりの砂が下層から吹き上がった「噴砂(ふんさ)」の跡と判明。約780平方メートルの発掘現場内に約20本あり、地下約2・3メートルにある砂の層から約1・5メートル吹き上がっていた。上から見ると、地上に噴き出た噴砂の部分が長さ十数メートルに及ぶものもあった。
原因として考えられるのは、「慶長豊後地震」(1596年)か「宝永地震」(1707年)だという。
慶長豊後地震は、別府湾を震源とし、マグニチュード(M)7・0と推定されている。大津波が押し寄せ、沿岸部の村がのみ込まれたと伝わっている。
宝永地震は、南海トラフを震源に、M8・6とされる。佐伯市では高さ約11・5メートルの津波に襲われたとの記録が残っている。
竹村教授は「大規模地震が起きた場合、同じような現象が起きる可能性があり、被害予測をする上で貴重な発見だ」と指摘。市教委とともに今後、地質や出土品などを調べ、噴砂の年代の特定を進める。