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「100メートル11秒で走る」という都市伝説があった斉藤さん(1984年4月)
不世出の超人だった。1984年ロサンゼルス五輪、88年ソウル五輪柔道の95キロ超級金メダリストで全日本柔道連盟強化委員長の斉藤仁氏が20日、大阪・東大阪市内の病院で肝内胆管がんのため死去した。54歳だった。最大のライバル山下泰裕氏(57=全柔連副会長)との激闘の数々は、昭和のスポーツ史を彩った。ソウル五輪では日本柔道の危機を救い国民的英雄となったが、超人的な身体能力の持ち主で数々の“怪物伝説”を残している。仰天エピソードを追悼公開――。
あまりに早すぎる別れだった。現役時代はライバルとして斉藤氏に立ちはだかり、引退後は柔道界再建へ手を取り合った全柔連の山下副会長は「最大最高のライバルだった。(斉藤氏が)強化委員長になってからは『2人で力を合わせて柔道界を再建しよう』と誓い合っていた。残念です」と沈痛な面持ち。男子の井上康生監督(36)も「非常に残念です。『リオ五輪でロンドン五輪のリベンジだ。負けた悔しさを取り戻そう』と合言葉のように話していた。天国で力を貸してくれると思う」と故人をしのんだ。
88年ソウル五輪では日本代表が6階級すべてで敗戦。残る95キロ超級で敗れれば史上初の金メダル「0」の屈辱を味わうところだったが、斉藤氏は重圧をはねのけ鬼気迫る柔道で金メダルを獲得。日本柔道を救った「英雄」となり、名実ともに日本スポーツ界屈指のスター選手になった。
しかし、素顔は明るく気さくな人柄。おごることなく他競技の選手とも気軽に接した。とかく柔道と“格”を争いがちなレスリングとも斉藤氏は積極的に交流を図った。なかでも、同じ青森県出身で84年ロス五輪レスリングフリー62キロ級銀メダル、92年バルセロナ五輪同68キロ級銅メダルの赤石光生氏(49)とは親交が深かった。
「競技が違うのに本当に多くの手助けをしてもらった。精神面、肉体面、惜しみなく教えてく スポーツニュース た。おかげで僕もロスから8年後の五輪でもメダルを獲得できた。残念で仕方がない。本当にありがとうございましたと言いたい」(赤石氏)
親しくなったころ、どうしたらもっと強くなれるか斉藤氏に相談すると「パワーをつけろ。ジムに行こう」と自らが通っていた都内のジムを紹介。週に1回、一緒にトレーニングをするようになった。
赤石氏が驚いたのは180センチ、150キロの超重量級とは思えぬ身体能力の高さだ。「開脚前屈(股割り)をすれば、胸がベターっと床に着いてしまう。走れば速いし、ステップをさせれば軽やかですごい。『格闘技にはリズム感が大事だぞ!』と言われ初めてディスコに連れて行かれましたが、斉藤さんはものすごくダンスがうまいんです。僕は全く踊れず困ったものでした」
斉藤氏と親しかった別のレスリング関係者によれば「何をやらせてもすごかった。100キロ以上の体でひょいと倒立して、そのままずっと歩いていけた」と証言。倒立歩行で講道館の大道場を楽々と往復できたほどで、前方宙返りも軽々とこなしたという。バランス感覚もずば抜けていた。
極めつきは「斉藤先生は現役のころ100メートルを11秒で走った」という快足伝説。ソウル五輪代表の座をかけて対戦したことのある暴走王・小川直也(46)によれば「さすがに斉藤先生でも11秒は無理。13秒くらいじゃない? でも足が速かったのは事実だし、先生は何でも器用にこなせたからね」。その身体能力はもはや“都市伝説”となっているのだ。
さらには「歌を歌わせれば抜群にうまい。AKBから演歌まで何でもいける。とにかく器用なんですよ」(前出のレスリング関係者)。なんともマルチな才能の持ち主だった。
北京五輪では教え子の石井慧(28=格闘家)が斉藤氏とのやりとりをコミカルに明かして一躍話題に。畳の上での怪物ぶりとは裏腹に、偉ぶらず、明るくオープンにいく人間力が斉藤氏の魅力だった。