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<海上保安庁>伝説の「海猿」が定年 特救隊の基礎築く

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<海上保安庁>伝説の「海猿」が定年 特救隊の基礎築く

<海上保安庁>伝説の「海猿」が定年 特救隊の基礎築く

海上保安庁で、難易度の高い救難などを専門に扱う特殊救難隊(特救隊)の基礎を作った伝説の「海猿」の一人、巡視船「いず」(3500トン)の片岡秀一船長(60)が3月で定年を迎える。今年で発足40年となる特救隊の草創期を支えた片岡さんの歩みは、海保の節目となる事件や事故の歴史でもあった。【米田堅持】

 ◇油だらけの海

 福島県いわき市で生まれ育った片岡さんは、1973年4月に海上保安学校(京都府舞鶴市)に入学、海上保安官としての人生を歩み始めた。卒業後は高松海上保安部の巡視艇「たかなみ」に配属された。造船所で整備中の74年12月、三菱石油水島製油所(岡山県水島市)から大量のC重油が流出し、国内最悪の油流出事故が発生すると、整備作業を切り上げて現場に向かい、約2か月間、事故処理にあたった。

 同年11月には東京湾でにLPGタンカー「第10雄洋丸」と貨物船「パシフィックアリス」が衝突、炎上し、33人が死亡した事故も発生していた。このため、翌75年10月、危険物火災やヘリコプターからのつり上げ救助など「特殊」な海難救助を専門に扱う部隊が作られることになり、片岡さんは志願して第2陣として配属された。今の特救隊は新人を含め36人体制だが、発足間もないころは第3管区海上保安本部(3管、横浜市中区)の警備救難部の救難課に「間借り」する10人に満たない小さな存在だった。

 「訓練も含めて何が『特殊』なのか暗中模索の時期だった」と片岡さんは当時を振り返る。「特殊」であるなしにかかわらず出動することで、特救隊は基礎を作り上げていった。苦労をともにした仲間の結束は強く兄弟のようだという。

 ◇ぎりぎりの深さから

 26歳の時、特救隊から福島県の小名浜海上保安部(現福島海上保安部)の巡視船「なとり」へと配属替えとなった。だが、特救隊に戻りたいという気持ちが抑えられなかった。幹部候補生となる特修科へ進んだ後、潜水士が乗船する呉海上保安部(広島県)の巡視船「ひだか」を経て、85年4月に特救隊に戻り、2年後に隊長となった。

 「潜水艦と釣り船が衝突した」

 88年7月23日、新人の潜水研修を行っていた片岡さんに、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第1富士丸」の事故の一報が入った。

 片岡さんらは直ちに現場へ向かった。重さ20キログラムのおもりをつけたロープを海底に落としながら「第1富士丸」を探し、現場を特定した。3人のチームを四つ作って潜水捜索に入るが、特救隊が潜れるぎりぎりの深さでの活動は困難を極めた。

 「現場の海面は濁っていたが、水深15~20メートルより下は透明度が高かった。45メートルぐらい潜って空気が粘っこくなったとき、甲板上に人様のものが見えた。」

 片岡さんは慎重に男性の遺体を引き揚げた。

 27日、片岡さんは応援に駆けつけた巡視船の潜水士らと大型クレーンで船体を海面付近まで引き上げられた「第1富士丸」の船内を捜索した。

 「犠牲者の姿を見ているうちに汗か涙がわからなくなった」

 「特殊」な現場を数多く経験した片岡さんにとっても、30人の犠牲者を出したこの事故はショックな出来事だったという。

 1週間ほど救助活動を行った後、片岡さんは意識を失って救急搬送され、4日ほど入院した。潜水病であれば短期間で症状が表れることから「過労だったと思う」と片岡さんは語る。

 ◇現場を知り尽くした男

 94年から約2年、新潟海上保安部の巡視船「やひこ」で潜水士として乗り組んだのを最後に、片岡さんは「海猿」としての役割を終えた。3管の救難課専門官として勤務していた97年7月には東京湾の中ノ瀬で大型タンカー「ダイヤモンドグレース」の原油流出事故が起きるなど、陸上勤務でも大事故や大事件の担当が続いた。

 救難課長として片岡さんと海難事故の対応にあたったこともある中村公亮3管次長は「曳航(えいこう)時のロープのかけ方をはじめ、現場を知り尽くしていた片岡さんと一緒に仕事ができたことは大きな財産になった」と語るように、多くの幹部が厚い信頼を寄せた。

 ◇ミスター特救隊

 片岡さんの海上保安官人生は、海保の激動の歴史と重なる。

 2002年2月、首席航海士として乗船した巡視船「いず」では、前年に沈没した北朝鮮の工作船の捜索にあたり、02年4月からは第10管区海上保安本部(鹿児島市)の救難課長として、引き揚げの陣頭指揮を執った。

 04年4月からは本庁救難課の専門官として新たな救難資機材の開発にも携わる。従来よりねじれにくいスタティックロープと専用の金具の開発には、厳しく注文をつけた。このロープを使った初のつり上げ救助が同年10月、富山港で座礁した海洋実習帆船「海王丸」の事故だった。

 「従来の手法だと降下ロープが障害物にからむ状況だったが、降下袋を装着した新しい手法ならば救助できそうだった。開発段階で訓練に参加していたパイロットの森さんが、やってみようと言ってくれて実際に使用して救助することができた」と片岡さんは後輩の潜水士たちに当時のことを話した。

 当時、特救隊員として海王丸へ降下した寺門嘉之さんは、片岡さんについて「後輩を支えて良き伝統を残してくれた。片岡さんこそ我々が描く『ミスター特救隊』だった」と言う。特救隊には訓練でできないことはやらないという伝統がある。まもなく40年を迎える特救隊の歴史に殉職者はいない。

 ◇最後まで激流の中で

 海上保安官は海の警察官という顔も持つ。片岡さんは、09年から2年半、石垣海上保安部(沖縄県)の巡視船「はてるま」の船長を務めた。10年9月に尖閣諸島沖で起きた中国漁船と巡視船の衝突事件では、漁船を追尾し停船させている。

 「衝突後、漁船を無事に確保できたのは良かったのですが、その先はちょっと……」

 片岡さんはいったん話を止めた。携帯電話も通じない海域を守る「防人(さきもり)」の姿を知ってもらいたいという思いと、警備の詳細は話せない現実との間で答えが見つからなかったようだ。この事件は日中の外交問題となり、後に海上保安官によるビデオ映像流出事件にも発展した。

 その後、横浜海上保安部の「しきね」の船長を経て、13年4月から「いず」の船長となった。14年末には、中国のサンゴ漁船が押し寄せた小笠原諸島へも派遣されるなど、片岡さんは最後まで激流の真ん中に身を置く形となった。

 「この船は、災害対応型として潜水士が乗船する『救難強化指定船』。最後まで現場にいることができて幸せだった」と笑う。一方で「潜水士は特救隊へのステップアップだけではない。今の特救隊はレベルアップしているが、潜水士として何をしたいのか考えながら最善の努力をしてほしい」と後輩の潜水士たちに辛口のエールを送った。

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