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【コロール(パラオ)=太田雅之】天皇、皇后両陛下は8日午後、戦後70年の「慰霊の旅」で、初めて西太平洋のパラオに入られた。
9日には日米合わせて約1万2000人が戦死した激戦地ペリリュー島で慰霊される。8日夜に開かれたパラオ政府主催の歓迎晩餐会(ばんさんかい)では、天皇陛下が「パラオの地において、先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」と慰霊への思いを語られた。
両陛下は8日昼前、東京・羽田をチャーター機で出発し、午後4時頃、パラオに到着。レメンゲサウ大統領夫妻の出迎えや地元小学生の歓迎を受けられた。
宮内庁によると、空港で大統領は、ペリリュー島での日本兵の遺骨収集を加速するため、封鎖されている200近い壕(ごう)を順次開放すると伝えた。天皇陛下は「遺族が大変感謝すると思います」と話されたという。
両陛下はその後、パラオ国際サンゴ礁センターでハゼを観賞された。
パラオは終戦までの約30年間、日本の統治下にあり、今も多くの日系人が暮らす。8日午後7時50分から中心地コロールで開かれた晩餐会には、両陛下とレメンゲサウ大統領夫妻のほか、同じく日本の委任統治領だったミクロネシア連邦とマーシャル諸島の両国大統領夫妻も出席。レメンゲサウ大統領が「日本と三つの島嶼(とうしょ)国との友好と協調の強い絆をここに確認します」と歓迎の意を示すと、天皇陛下はあいさつで先の戦争に触れ、「貴国民に空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした」と述べられた。
晩餐会の後、両陛下は海上保安庁のヘリコプターに乗り、洋上に停泊中の海上保安庁の巡視船「あきつしま」に移動して宿泊。9日朝、船上の甲板からヘリでペリリュー島に入られる。
横浜市立中学校で長年教壇に立った元校長が、フィリピン人少女のポルノ写真を撮影した疑いで逮捕された。
現役教諭時代から20年余り、同国で延べ1万2600人超の女性を相手に買春を続けたと供述している元校長。大勢の少女も含まれているとみられ、記者会見した林文子市長は「事実確認中だが、こんなことが長期間わからなかったとすれば、ものすごく恐ろしい」と険しい表情で語った。
児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造)容疑で8日に逮捕されたのは横浜市金沢区、無職高島雄平容疑者(64)。市教委などの説明では、1975年に市に採用され中学教諭となった後、本人の希望で88年4月から3年間、フィリピンの日本人学校に赴任し、理科を教えていた。帰国後も複数の市立中で教諭、副校長、校長として勤務。定年退職後の2012年4月~15年3月は公益財団法人・横浜市教育文化研究所で教育情報誌の編集長を務めていた。
県警少年捜査課の発表によると、高島容疑者が買春を始めたのは同国赴任中。女性に支払う金額の安さにひかれ、横浜に戻った後も、長期休暇の度に同国に渡って、一度に複数の女性を買春する行為を繰り返していたという。
調べに対し、高島容疑者は「(買春の際には)みだらな行為の様子をデジタルカメラなどで撮影していた」と供述。県警が昨年2月、高島容疑者宅で押収した写真は約14万7600枚に上り、約400冊のアルバムに貼られていた。女性たちには「通し番号」が書き添えられており、最後の番号は「12660」。13、14年の年末年始の渡航中に買春した女性だったという。
高島容疑者は「(買春した女性のうち)1割ほどが18歳未満だった」「(現地語の)タガログ語や英語を使っていると大胆になれた。倫理のたがが外れた」とも話しているという。
林市長は会見で、「(元校長の周囲は)きちんとコミュニケーションがとれていたのか」と事件に長期間気づけなかったことを問題視し、「私自身にも責任がある。誠に申し訳ない」と謝罪した。横浜市教委も8日夕、高島容疑者が勤務してきた学校にカウンセラーを派遣して生徒のケアにあたる一方、高島容疑者に退職金約3000万円の返還を求める考えを示した。
天皇、皇后両陛下が9日に訪問されるパラオ・ペリリュー島では、太平洋戦争で犠牲になった日本兵ら約1万人のうち、約2600人分の遺骨が今も見つかっていない。
「一日も早く、戻るべき故郷に帰してあげたい」と収集作業に協力してきた島民らは、両陛下の訪問が収集を加速させるきっかけになればと願う。
「激しい戦いだったことは、島の変わりようからも分かった」。島で民宿を営むマユミ・シノヅカさん(77)は、70年前の故郷の様子を振り返る。
日本人の父、パラオ人の母を持つ日系2世。1944年9月に島で戦闘が始まる前、パラオ本島に一家で疎開して難を逃れた。戦後に戻った故郷は、生い茂っていた木々が焼き尽くされ、サンゴ礁の白い地面がむき出しになっていた。
守備隊が島に張り巡らせ、2か月以上にわたって戦った壕(ごう)には、日本兵の亡きがらがそのままになっていた。
70年代に入ると、日本から慰霊や遺骨収集に訪れる人が増え、受け入れ先として民宿を始めた。壕の前で号泣し、宿舎でも涙が乾かない遺族らを見て、「私も日本人。だから悲しくなった」と深く同情した。
2012年12月に島を襲った大型の台風で、民宿と自宅が全壊した。それでも「遺族のために」と、民宿の再建を優先させた。「慰霊に訪れる人がいなくなるまで民宿は続ける」。シノヅカさんはそう決めている。
翁長雄志沖縄県知事が菅義偉官房長官との初会談で、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する沖縄の民意を伝えた5日、会談が行われた那覇市のホテル周辺などには反対派の市民が集まり、「私たちの声を真剣に聴け」と叫びながら、怒りの拳を突き上げた。
「辺野古移設を撤回せよ。無視は許さないぞ」。両氏の会談が始まる前の午前9時ごろ、ホテル周辺には野党の国会議員や県議、市民ら約300人が集結した。翁長氏を乗せた車が目の前を通ると「頑張れ、頑張れ、翁長」と大歓声が起き、翁長氏も車の窓を開け、手を挙げて応じた。
5日午後1時40分ごろ、北海道旭川市豊岡4条の会社員波多野貢司さん(40)が、自宅の駐車場から乗用車を発進させた際、次女の葵ちゃん(1)をひいた。葵ちゃんは近くの病院に搬送されたが、頭を強く打っており、脳挫傷で死亡した。
道警旭川東署によると、波多野さんは家族4人で外出するところだった。自宅敷地内の駐車場から車を出そうとした際、前にいた葵ちゃんに気付かず、誤ってひいたとみられる。同署が当時の詳しい状況を調べている。