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わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて

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わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて

わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて

グレーの長袖シャツの下の胸はやせこけていた。深いしわが刻まれた肌に聴診器が触れる。「調子はどうですか」。永原診療会千本診療所(京都市上京区)の根津幸彦医師(59)は、訪問診療でベッドの患者に尋ねた。「先生、夜がこわい」。早川一光さん(91)がしゃがれ声で訴えた。
 早川さんは、戦後間もない時期から堀川病院(上京区)の前身となる診療所の設立に関わり、西陣地域の医療の充実に力を注いだ。「わらじ医者」と慕われ、テレビドラマのモデルになった。老いや認知症を取り上げた著書も数多い。KBS京都のラジオ番組に28年にわたり出演し、講演も精力的にこなしてきた。
 そんな早川さんが医師から患者になった。昨年10月に腰の圧迫骨折で入院し、思ってもみない病名を告げられた。血液がんの多発性骨髄腫。抗がん剤治療を続けながら、右京区の自宅で闘病生活を送っている。
 多くの人をみとり、老いや死について語ってきたはずだった。しかし、病に向き合うと一変、心が千々に乱れた。布団の中では最期の迎え方をあれこれ考えてしまい、眠れない。食欲が落ち、化学療法を続けるかで気持ちが揺れた。「僕がこんなに弱い人間とは思わなかった」。長年の友人である根津医師に嘆いた。
 2人は一時期、堀川病院で働いた仲だ。根津医師は今も西陣地域で診療に携わる傍ら高齢者の孤独死を防ぐために交流会を開き、市民運動にも関わる。早川さんは、そんな姿に自らの来し方を重ね合わせ、親しみを感じてきた。在宅医療を受けると決めた時、思い浮かんだのは彼の顔だった。
 根津医師には時に患者としてのつらさを、時に医師の視点から治療への疑問を率直にぶつける。ある日、こう投げかけた。「治らないのに鎮痛剤で痛みを分からなくするのが今の医療か。本当の医療とは何や」。根津医師が迷いのない口調で切り返す。「在宅医療では痛みや苦しみを取ることしかできない。でも、それは生活を守ること。患者のつらさを少しでも和らげる。早川先生自身もやってきた医療ではないのですか」
 診察のたびに繰り返される問答。いつしか早川さんはそこに、主治医のあるべき姿を見いだした。「10分でいいから患者の悩みを聞いてほしい。患者の最期までともに歩んでほしい」。患者になったからこそ、たどり着いた答えだった。
 3月19日。診察が終わった後の客間で、早川さんは吹っ切れたようにつぶやいた。「どうせ避けられないさんずの川や。上手な渡り方を勉強し、みんなに評価を問う。それが僕のこれからの道やないか」
 2日後の早朝、上京区のKBS京都のスタジオに早川さんの姿があった。久しぶりのラジオ出演。「初めて病む人の気持ちが分かった。死ぬ怖さを知りました」。今の心境を包み隠さず語った。放送が終わると、来場したリスナーが次々に歩み寄ってきた。かつて自分の患者にしたように、早川さんは一人一人の手をしっかり握った。
 ■はやかわ・かずてる 1924年生まれ。愛知県出身。京都府立医科大卒。50年、西陣地域の住民の出資で設立された白峯診療所の医師になる。診療所が発展して開設された堀川病院で院長を務め、往診や訪問看護など在宅医療に力を入れた。「呆(ぼ)け老人をかかえる家族の会(現認知症の人と家族の会)」の立ち上げにも尽力。医学や哲学、宗教などの枠を超えて人間を考える「総合人間学」を唱えた。「わらじ医者京日記」など著書多数。

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