社会そのほか速
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<計算違いで大ごとに>
大阪の大学に通っていましたが、両親の希望もあり、地元・津市に戻って井村屋製菓に入社しました。配属されたのは、学校給食向けに牛乳を製造する子会社の経理。肉まん・あんまんといった看板商品とは全く縁がありませんでした。
入社後数年がたった頃、労災が特別に多く発生している会社との指定を受けました。私が計算を間違い、誤った書類を労働基準監督署に提出したのが原因でした。労基署も気づきましたが、「(書類を)出した以上、1年間指定します」と取り消してくれません。「みんなに悪いことをした」と悔やみました。当時の課長は怒ることもなく指導してくれたのを覚えています。
<独学でシステム化>
30歳になった1982年、妻に泣きついて三十数万円をはたきパソコンを買いました。当時、経理の書類はすべて手書きで手間がかかっていました。「毎日同じことの繰り返し。こんなことでいいのかな」と疑問を持ち、システム化できないかと考えていたからです。
本や雑誌で勉強して、既存のソフトウェアを応用し、経理を手始めに、人事や給与、生産管理、物流と、10年かけて子会社の全ての事務を電子化しました。
仕事が面白くなり、それにつれて昇進もして、2005年にはチルドフーズカンパニーの副責任者になっていました。最初に配属された子会社のナンバー2に当たります。
そのとき起こったのが、全国的な寒天ブームでした。とにかく生産が間に合わない。取引先から「いつできるんだ」と怒られ、社員に残業に次ぐ残業をしてもらい作りました。私自身も、毎日3~4時間しか眠れず、2か月で7キロやせました。
<社長業とマラソン>
近所の知り合いに誘われ、トライアスロンを始めたのは40歳の時です。泳ぎが不得手だったのですが、年齢的な節目を迎え何かに挑戦しようと思ったのです。
20年ほどたった11年6月、自転車の練習中に転倒して意識を失い、救急車で病院に運ばれました。肋骨(ろっこつ)や胸骨が折れていたほか、頭蓋骨にもひびが入っていました。
井村屋製菓が持ち株会社に移行して、初めての株主総会が2週間後に迫っていました。私は財務部門のトップ。私がいないと総会が成り立ちません。事故から2日後、準備のために痛みをこらえながら病院を抜け出して出社しました。総会では多くの質問に答えなくてはいけませんでしたが、何とか乗り切りました。
昨年6月に社長に就任しました。国内の人口が減る中、成長を続けるために、今年4月、海外事業戦略部を作りました。これから攻勢をかけます。趣味では、フルマラソンに挑戦しています。マラソンも会社経営も目標に向かって頑張るという点では共通しています。ただ、経営は経済環境の変化にあわせて走りながら計画を変える必要があり、もっと緊張感を感じます。(聞き手 岡崎哲)
◇
《メモ》 1952年、津市生まれ。75年関西大卒、井村屋製菓入社。財務部長を経て、2013年6月に井村屋グループ社長。トライアスロン愛好者で、フルマラソンも走る「鉄人」社長として知られる。井村屋は「肉まん・あんまん」と「あずきバー」が二枚看板。17年の会社設立70周年までに海外売上高の比率を10%に引き上げるのが目標で、イスラム教徒向け食品にも力を注いでいる。