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育てた社員 震災で去る

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育てた社員 震災で去る

育てた社員 震災で去る 

菊池功 71 菊池製作所社長

 

 <集団就職で上京>

  •   15歳の春、福島県飯舘(いいたて)村から集団就職で東京に出てきました。

      常磐線の車窓から見た利根川や荒川の川幅の広いこと。山に囲まれた故郷の風景との違いに驚きました。

      就職先は、職業安定所で探したカメラ関係の試作会社。メーカーの新製品の試作品や部品を作る仕事です。金属を削って加工する旋盤などの技術を先輩の職人から学びました。

      社長の後押しもあり、26歳で独立しました。東京・八王子に妻と2人で借りた小屋に中古の機械を置き、試作の仕事を始めたのです。

     <過疎地に工場>

      故郷・飯舘村に工場を作ったのは41歳の時。それまで「いずれ村に工場を作る」と言って故郷の若者を八王子で採用してきました。彼らを郷里に帰すことができるようになり、約束を果たした思いでした。

      過疎が進む飯舘では、農業以外に就職先といったら役場や農協、郵便局くらい。地元の人が先祖伝来の田畑を守りながら働ける場所を作りたいと思っていました。

      会社にとっても、そうした環境なら社員が辞めることなく、時間をかけてじっくりと技術を習得し、「匠(たくみ)の技」を身に付けられます。

     <3年間で100人退社>

      2011年3月11日、東日本大震災が発生。東京電力福島第一原子力発電所の事故で、飯舘村は「計画的避難区域」に。工場の近くに暮らしていた多くの社員が、福島市での避難生活を余儀なくされました。

      工場の被害は軽微で操業は認められたので、彼らは往復3~4時間かけて飯舘に通勤する日々が始まったのです。

      当時、飯舘工場には約300人が働いていました。しかし、避難生活が2年ほどたった頃からです。彼らは徐々に会社を辞めていきました。幼い子供がいる社員も多く、家族の意向もあって仕事を含めた生活基盤を避難先に移すことにしたのだと思います。

      結局、3年間で約100人が去りました。我々は「匠の技」が第一。時間をかけて育てた人たちが出ていくのは身を切られるのと一緒。会社にとって大きな痛手です。でも、それぞれ事情のある彼らに、私も幹部も「辞めるな」とは言えない。退社の理由は尋ねず、黙って耐えるしかありませんでした。

      その後、新たに採用をして社員の数は元に戻りました。しかし、技術力にはやはり影響が出ます。新しく入ってきた人たちは一から技術を身に付けるわけですから当然です。

     <夢のある仕事を>

      若い社員たちに、将来性と夢のある仕事をさせたい。今、ロボット事業に力を入れています。人が身に着けて、ものを持ち上げるのを助ける「マッスルスーツ」は老人介護施設などに販売していきます。福島県南相馬市で、大学と連携してロボットを開発・生産する工場を作る計画もあります。社員には「ロボットの匠」になってもらいたいと考えています。(聞き手 浅子崇)

     

      《メモ》 1970年に東京都八王子市で事業を始め、76年に株式会社化した。従業員は約400人。カメラや携帯電話、複合機などの製品の試作や生産などを手がける。2011年にジャスダック市場に上場。介護現場で使うロボットなどの開発も行い、菊池社長は政府の「ロボット革命実現会議」の委員も務める。14年4月期の連結売上高は55億円。

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