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みなさんは、「老いの神話」というものを知っていますか?
それは、高齢者を肉体的にも精神的にも衰退し、ただ死を待つだけの存在とみなすことです。この「老いの神話」は、次のようなネガティブなイメージに満ちています。すなわち、「孤独」「無力」「依存的」「外見に魅力がない」「頭の回りが鈍い」など。しかし、ものごとというのは何でも見方を変えるだけでポジティブなイメージに読み替えることが可能です。
■「老いの神話」を打ち破る
たとえば、高齢者は孤独なのではなく、毅然としているのだ。無力なのではなく、おだやかなのだ。依存的なのではなく、親しみやすいのだ。外見に魅力がないのではなく、内面が深いのだ。そして、頭の回りが鈍いのではなく、思慮深いのだ、といったふうにです。
「老いの神話」を打ち破る作業は、すでに紀元前1世紀に古代ローマの賢人キケロが『老境について』という本で行っています。キケロは大カトーに託して、老年について次のようにポジティブに語っています。老年になれば確かに「青春と活気」を必要とする若者の仕事からは引退しなければならないが、世の中には老人に適した多くの仕事がある。むしろ偉大な仕事は老人の「知恵や知識」によって成し遂げられるのであるとキケロは宣言しています。
また、老人になると物忘れがひどくなりぼけてくるという偏見に対しては、熱意と活動とが持続しているかぎり、老人にはその知力がとどまっているのだと反論しています。
さらに、肉体的能力の衰えについては衰えをまったく否定するわけではなく、むしろ老年にふさわしい肉体的健康をポジティブに受け入れることが大切であるとキケロは強調しています。自分がいま、青年の持つ体力を実際欲しがっていないのは、あたかも青年時代に雄牛や象の持っている体力を欲しがっていなかったのと同じである。自分が持っているものを使うと、またなにごとをなすにしても、自分の力にふさわしいことをなすのが正常なことだ。キケロはそう言うのです。
老人は、失われた若者の体力を基準にして老年の非力を嘆くのではなく、現在の自分をあるがままに肯定すること、年輪によって育まれた知恵と見識を発揮することに現在を生きることの意義を見いだしうること、これがキケロが力説してやまない点でした。『老境について』は老年論の古典となり、キケロの老人観はヨーロッパの伝統として生き続けてきました。
他にも、世界中のさまざまな文化が「老い」から「死」へのプロセスをポジティブにとらえています。日本の神道では、「老い」とは人が神に近づく状態です。神への最短距離にいる人間のことを「翁(おきな)」と呼びます。また7歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にあたる高齢者と子どもが神に近く、そのあいだが人間の時代となります。ですから神道では、神に近づく「老い」は価値を持っており、高齢者はいつでも尊敬される存在であるといえます。
■老いをめでたいととらえるアイヌの人々
アイヌの人々は、高齢者の言うことがだんだんとわかりにくくなっても、老人ぼけとか痴ほうなどとは言いません。高齢者が神の世界に近づいていくので、「神用語」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。これほど「老いの神話」を無化して、「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。「老い」とは人生のグランドステージを一段ずつ上がっていって翁として神に近づいていく「神化」にほかならないのです。そして、その神化に至るまでの道のりは、人間という生物としての競争を勝ち抜いてきた結果でもあります。
かつて古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「哲学とは、死の学びである」と言いました。わたしは「死の学び」である哲学の実践として2つの方法があると思います。一つは、他人のお葬式に参列すること。もう一つは、自分の長寿祝いを行うこと。
神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を思い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろん、それは自殺などの問題とはまったく無縁な、ポジティブな「死」の覚悟です。
人は長寿祝いで「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。また、翁となった自分は、死後、神となって愛する子孫たちを守っていくという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。その意味で、長寿祝いとは「生前葬」でもあります。
わたしは、本当の「老いの神話」とは、高齢者のみじめで差別に満ちた物語などではないと思っています。年齢を重ねるごとに知恵と見識を発揮し、尊敬される人間になり、神に近づいていく。この愉快な物語こそ、本当の「老いの神話」ではないでしょうか。
一条真也(いちじょう・しんや)本名・佐久間庸和(さくま・つねかず) 1963年北九州市生まれ。88年早稲田大学政経学部卒、東急エージェンシーを経て、89年、父が経営する冠婚葬祭チェーンのサンレーに入社。2001年から社長。大学卒業時に書いた「ハートフルに遊ぶ」がベストセラーに。「老福論~人は老いるほど豊かになる」「決定版 終活入門~あなたの残りの人生を輝かせるための方策」など著書多数。全国冠婚葬祭互助会連盟会長。九州国際大学客員教授。12年孔子文化賞受賞。
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デジタルシーンを牽引するクリエイターたちにFirefox OSを搭載したauスマホ「Fx0」の魅力をインタビューする本連載もいよいよ最終回。最後に登場するのは、日本のネットアートシーンのパイオニアである「エキソニモ」のメンバー、千房けん輔だ。
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赤岩やえとのアートユニットとしてスタートしたエキソニモは、世界的なメディアアートの祭典『アルス・エレクトロニカ』で何度も受賞を重ねるなど、活躍の場を世界に広げてきた。既存のプログラムに意図的にバグを発生させるなどハッカー的な手法を用いた作品群には、常にリアルとネットの世界が衝突する摩擦や身体性を問う姿勢が内在している。エキソニモの作品は、Windows95の発表と共に幕を開けたネットの仮想空間が、スマホやSNSの登場で現実空間と密接に関わるようになった「インターネットの歴史」と歩調を揃えるものと言えるだろう。
エキソニモ千房けん輔へのインタビューを通して、インターネットの歴史、メディアアートのこれから、そしてFx0が指し示すウェブの未来図が見えてくる。
■インターネットを使えば作品を家からダイレクトに世界に出せる。そのスピード感が肌に合ったんだと思います。
―千房さんはFx0のことはご存知でしたか?
千房:はい、Firefox OSが搭載されたスマホがauから発売されたことは、知っていましたが、実際に触ってみたのは初めてでした。すごく使いやすそうですね。巨大な開発環境を使いこなさなくても簡単に開発できるようになるから、プログラミング知識が乏しいアーティストにとっても敷居が低くていいですよね。
―エキソニモの活動を始めたきっかけはなんですか? Windows95の発売が1995年ですから、インターネットが広まってすぐのタイミングですよね。
千房:僕と赤岩が東京造形大学を卒業して、就職活動もせずに「これからどうしようかな」と決めかねてたとき、偶然の出会いがあったんです。赤岩がたまたま空港で長時間足止めされたときに、隣に座ってた女性に「インターネットっていうすごいものがある」と熱弁されて。それがきっかけで、僕と赤岩はその人が勤めていたウェブ制作会社でバイトすることになったんです。
―たまたま出会った女性からインターネットを教えてもらったことで、エキソニモが誕生したんですね。世の中わからないものですね。
千房:ほんとそう。それからインターネットを使うようになって、作品が一瞬で世界中に発信できたり、発表した後でも作りこむことができるのが新鮮でしたね。今までは、展覧会をやるにはギャラリーを借りなきゃいけなかったけれど、インターネットを使えば作品を家からダイレクトに世界に出せる。そのスピード感が肌に合ったんだと思います。
―auも「Creator Showcase」というアプリのソースを共有するコミュニティーを用意していますが、作ったものだけではなく、作り方もすぐに世界中で共有できるということは、インターネット以前は考えられなかったことですよね。エキソニモとしての最初の作品はどんなものでしたか?
千房:1996年に作った『KAO』という、デジタル福笑いみたいな作品。目や鼻のパーツを組み合わせて顔を作って「送信」すると、その前に「送信」された顔と混ざった「子どもの顔」が自動生成されるという、顔遺伝ゲームです。当時のインターネットはチャットや掲示板が盛んだったんですけど、テキストでやり取りするのに抵抗があって(笑)。非言語のコミュニケーションとして、「顔」をコミュニケーション手段として試したんです。
―後の作品でも自動生成の手法を使っていますが、最初の作品からその発想があったんですね。
千房:不真面目な美大生だった頃から、「俺がこれを作ったんだ」と作家が主張するアートのスタイルに対して違和感があったんです。『KAO』は自分が作った顔が、前の人が作った顔と組み合わされて違うものになっちゃうでしょ? 作家性をこめたものが違うものにずれていくというのが自分たちの肝なので、自動生成の手法が合っていたんだと思います。
■当時のインターネットはアンダーグラウンドな世界でしたね。世界中に変なことをやっている奴らがたくさんいて、ページをクリックすると突然違うところに飛ばされたり、わけのわからない絵が出てきたり。
―『KAO』は現在の活動に直接つながるような処女作だったわけですが、当時のネット界隈でエキソニモはどのような立ち位置だったのでしょうか?
千房:インターネット黎明期だったので、ネットをやっている人が本当に少なかったし、今のようにアート的な文脈もなかったです。小さい村に面白いことをやっている奴らがぽつぽついるみたいな感じで。海外とのつながりは早くからあって、外国人から感想メールが来たり、相談を受けたりすることが毎日のようにありました。
―でも、あの頃は電話回線でインターネットをしていたから、今のようにいつでも自由にネットができる環境ではなかったですよね。
千房:当時のインターネットはアンダーグラウンドな世界でしたね。「テレホーダイ」っていう夜23時から朝8時までの通信料無料の時間帯に合わせてみんな生活していて、自ずと不健康な人たちが集うカルチャーになっていた(笑)。世界中に変なことをやっている奴らがたくさんいて、ウェブページに行っても、クリックすると突然違うところに飛ばされたり、わけのわからない絵が出てきたり。迷路を手探りで進んでいく感覚がすごく面白かったです。
―インターネットは面白いことをやっている連中が集まっているたまり場だったんですね。そこからアートシーンにつながるようになったのはいつ頃なんでしょうか?
千房:2000年頃かな。キュレーターの四方幸子さんに声をかけられて、資生堂が開設したCyGnet(シグネット)というネットギャラリーに、HTMLのバグを発生させてホームページが崩れていく『DISCODER』っていう作品を出したんですよ。その後、先日亡くなったメディアアートアーティストの三上晴子さんとも親交が生まれて、「『アルス・エレクトロニカ』とかにガンガン作品を出しなさい!」と言われた頃から、国際展にも出品するようになりました。
―『アルス・エレクトロニカ』は、1979年にオーストリアで始まったメディアアートや先進技術の国際展ですが、それがエキソニモにとって最初の国際展だったんでしょうか?
千房:その前に、2000年の『ロッテルダム国際映画祭』で日本のポップカルチャーが特集されたときに、『DISCODER』のインスタレーション版を展示しました。メディアアートアーティストのplaplaxやクワクボリョウタと出会ったのもロッテルダムで、それまではメディアアートの文脈とはまったく交流がなかったので新鮮でしたね。
■スマートフォンの登場で、パソコンの前でやるものだったネットが、いつでもどこでもできるようになったのはすごく大きい。ただ、昔のほうが隠れ家的な面白さはありましたね。
―その後、2005年に移動型インスタレーション作品の『The Road Movie』で『アルス・エレクトロニカ』ネット部門のゴールデンニカ賞を受賞されていますよね。エキソニモは日本のネットアートの生き字引的存在だと思うのですが、インターネットを取り巻く環境の変化をどのように感じていましたか?
千房:すごく変化のスピードが速かったですよね。メディアアートでネットを使うのがもはや当たり前になってしまったから、2006年以降は『アルス・エレクトロニカ』のネット部門がなくなってしまったんですよ。自分もインスタレーション展示でリアルな空間でいろんな人と知り合ってから、ネットとの間に距離ができて。テレホーダイの深夜帯に生活していた人が、急にリア充になった(笑)。リアルタイムウェブの時代にあらためてネットとつながり始めましたが、スマートフォンの登場で、パソコンの前でやるものだったネットが、いつでもどこでもできるようになったのはすごく大きい。ただ、昔のほうが隠れ家的な面白さはありましたね。
―ネットが小さな村だった頃のほうが?
千房:そうですね。昔はなんでもタダで使っていいよって雰囲気で、企業もAPIを公開して大盤振る舞いだったのが、あるときからネットに人が増えすぎて、何を使うのにも課金しないといけなくなった。昔の自由な感じはなくなりましたよね。
―千房さんからすると寂しいですか?
千房:でも、しょうがないと思うんですよ。例えばどこかの港町で、獲れた魚を町民にタダであげていたのが、気づいたら外から見知らぬ人がわーっと沢山来て「タダでくれるんでしょ?」ってなったら、それはルールを変えないと。
■実機で動くのはシミュレーターでは得られない感動があるので、作ったものが実際に動くのをすぐに見られるFx0は、昔のインターネットにあった楽しさを感じます。
―無料でAPIを提供し続けるとビジネスとして成立しなくなるほど、ネット人口が増えていますからね。沢山のルールが作られ、1つのアプリをリリースするのにも審査や規約をパスするのが大変な風潮がありますが、ウェブ標準技術を使って自由に開発できるFx0は、かつてネットにあった自由を取り戻そうという思想が込められているように思います。
千房:Firefox自体がオープンソースだもんね。実機で動くのはシミュレーターでは得られない感動があるので、HTML5やJavascriptで作ったものが実際に動くのをすぐに見られるFx0は、昔のインターネットにあった楽しさを感じます。
―Fx0に搭載されている「Framin」(トリガーとアクションを組み合わせてスマホ上でアプリが作れるツール)を使えば、作ったものが動く感動をプログラミングしなくても得ることができます。Fx0が多くの人に作る楽しさを広げてくれそうですね。
千房:「Framin」はプロトタイプ作りにもいいですね。アメリカのオバマ大統領が小中学生のプログラミング授業の重要性を提案する声明を出していましたけど、これからの時代、プログラミングは確実に重要になってくると思います。特に子どもたちには「何かを作った」という実感が大切ですから、Fx0はプログラミングの授業でも役に立ちそうですね。小学校の授業でアプリを作ろうってなったときに「これから認可待ちで1週間待ちます」って言われてもテンション下がっちゃうよね(笑)。
■オープンソースのような万人に開かれたカルチャーは面白いし絶対的な正義だけど、アーティストという存在は、必ずしも正義じゃなくてもよくて(笑)。
―オープンソースのFirefoxやFx0にとって「自由」は欠かせないキーワードですが、そういった自由は千房さんにとっても大切なものですか?
千房:大切ですね。昔からFirefoxやLinuxなどオープンソースソフトウェアは好きですし、プログラミングやネット技術は万人に開かれたものであるというカルチャーは面白いと思っています。でも、一方でアーティストとしてはそれをあまり背負いたくないっていう気持ちもある。
―自由さを背負いたくない?
千房:オープンソースのような万人に開かれたカルチャーは面白いし絶対的な正義だけど、アーティストという存在は、必ずしも正義じゃなくてもよくて(笑)。もっと不安定な存在で、「こいつら正しいのか正しくないのかわからねーぞ」っていうほうが面白い。怪しさや危うさを持っていることにアーティストの価値があると思います。
―怪しさがあって、面白いことやっているのがアートの魅力。
千房:もちろんオープンソースの恩恵を自分も受けているし、リスペクトもしてます。でも、アーティストとしてその「絶対の正義」を自分はまとわないようにしています。
―これまでの話を踏まえ、最近の活動について聞きたいのですが、千房さんはエキソニモとしての作家活動とは別に、IDPW(アイパス)という組織を作って、インターネットに関するあらゆるものをリアル空間で売買する「インターネットヤミ市」を運営していますよね。エキソニモとIDPWはどんな関係なんでしょうか?
千房:IDPWでのチーム活動があることで、エキソニモは純粋に個人的な問題意識で発表ができるようになったと思っています。環境作りと作品制作を別にできたというか。
―その2つがパラレルにあるのが大切なんでしょうか?
千房:これまで自分がエキソニモとして活動してきて、作品を取り巻く環境を作っていかなきゃって意識が芽生えてきているんですよね。クリエイティブな何かをやったところで、それが伝わり、残る環境を作らないと意味がない。逆に作家活動はとてもエゴイスティックなものだから、それを両方やり続けるためにも両者を分けたかったんです。
―これまでアングラで不健康なネットカルチャーに触れてきた人が、環境を作るという公共性に目覚めた理由ってなんでしょう。
千房:メディアアートって批評家がほとんどいなくて、ただ展示見て「面白かったね」で終わるのを繰り替えしていると、だんだん虚しくなってくる。それで、文脈みたいなものを作らないといけないと思ったからですね。エキソニモでやり散らかしすぎたっていう反省もあるかも(笑)。
■プログラミングやテクノロジーを自然に受け止め、リアルとネットの両方を自由に行き来する若い世代が現れてきているのは間違いない。
―一方、作家としてのエキソニモが求めるものってなんでしょうか?
千房:やり散らかしてきたことを振り返ってみると、場当たり的にやっていたように見えて、実は共通したテーマがあることに気づいたんですよ。自分たちは、2つの世界がぶつかる境界線をいつも扱っている気がする。例えば、Googleのトップページをペインティングで描いた「Google絵画」(『Natural Prosess』プロジェクトの一部)だったら、展覧会のリアルな会場とネット空間がせめぎあう境界線を扱っている。すべてにおいて境界線を問う構図があるんですよね。
―『3331 Art Fair』に出品した新作も、映像の中にいる白塗りの人物と、実際に白く塗ったディスプレイが境界線をせめぎ合う作品でしたね。
千房:今回の作品はモニターに白塗りしているだけで、インタラクティブでもないし、ネットに同期もしてない。でも、言いたいことは言えていると思っていて。最近はネットに無理矢理つなげなくていいと思っていて、研ぎすましていって無駄なものは排除しています。
―ネットやコンピューターが当たり前になってきている現代、エキソニモはメディアアートというよりも現代美術としての位置づけで活動していかれるのでしょうか?
千房:先端的なテクノロジーを扱うジャンルがメディアアートだったわけだけど、作品にコンピューターを使うことが普通になってきているので、最終的にメディアアートは現代美術にならざるをえないと思います。
―メディアアートが消えるかもしれないことに、一抹の寂しさはありますか?
千房:全然ないです。それが当たり前だと思っているから。ちょっと前までは、現代美術の人は絶対コンピューターを使わない、みたいな線引きがありましたよね。普段はGoogleで検索してるのに、作品にした途端にコンピューターは使わず木とか絵具とかを使うじゃないですか。それも変なことで。でも、最近はコンピューターを使う現代美術の作家も増え、現代美術の側もメディアアートの領域に入ってきてる気がするし。メディアアートと現代美術の境界がぼやけていると思います。
―今の若い世代は、物心ついた頃から生活にネットやコンピューターが溶け込んでいますからね。
千房:インターネットを特別視してしまう僕らの世代とは違って、プログラミングやテクノロジーを自然に受け止め、リアルとネットの両方を自由に行き来する若い世代が現れてきているのは間違いない。Fx0みたいにHTML5やJavascriptで制作したソフトウェアを簡単に検証できる開発環境が用意されたら、若い人たちが新しいものを作っていくことがますます加速するでしょうね。
―そうですね。auではFirefox OSを搭載した開発ツールも提供していますが、Fx0を作品制作で使うとしたら、どのようなことができそうでしょうか?
千房:例えばインスタレーション作品を作るとき、パソコンに比べてすごく小さいFx0にプログラムを書いたアプリを組み込めば、今までできなかった展示ができそうですね。最近、「Raspberry Pi」という小型のコンピューターを組み込んだ、自動的に地球儀が動き回る作品を作ったんですが、Fx0もそのように小型の作品に組み込むのに向いていそうだと感じました。デバイスの中に、通信がデフォルトでついているFx0を組み込んで、GPSを使った作品を作るとか。
―Fx0が作品制作の幅も広げてくれそうですね。KDDIはウェブの未来を考える上で、「au design project」を発足するなど、これまで様々な実験的な取り組みを打ち出してきました。Fx0も、一方的で受け身だったスマホの体験を主体的なものに変えるという意味で、スマホやインターネットの未来を問うプロダクトですよね。
千房:Fx0は、すごく挑発的なマシンだと思います。でもこの取り組みは、リアルとネットを行き来する世代が新たに何かを生み出すためにも、次のステップにつながるんじゃないでしょうか。
ツイッター、フェイスブックなどのSNSや、LINEのようなアプリなど、次々と新しいツールが登場しているなか、いまだになくならない有料メルマガ。SNSやアプリ全盛の時代でも、有料メルマガがビジネスとして成立するのはなぜなのか? 「BOOKSTAND」(http://bookstand.webdoku.jp/)で有料メルマガを運営する博報堂ケトルの原利彦氏に聞いてみた。
――いきなりですが、有料メルマガって儲かってるんですか?
原:おかげさまで、僕が運営している「BOOKSTAND」は黒字経営です。それは、あらかじめ儲かるメドがついている方にだけお願いしているからですね。
――“儲かるメド”の目安は何ですか?
原:たとえ大勢ではなくても、コアなファンを確実につかまえている芸人さんやタレントさんに、こちらからお願いしてメルマガをスタートしています。そして、編集や交渉作業も僕は一緒にやります。現在は、水道橋博士さん、マキタスポーツさん、プチ鹿島さん、エレキコミックさんといった方々と、メールマガジンを運営しています。
――アプリではダメなんですか?
原:アプリのみだと、儲けが少なくなりビジネスとしては厳しいでしょうね。アプリはあくまで、コンテンツの出口の1つだと思っています。僕がメルマガプラットフォームの運営をしていて意外だったのが、パソコンで見る読者が意外に多かったこと。しかも同じメルマガを、ユーザーがシチュエーションに応じてデバイスを使い分けつつ、楽しんでいただいていることです。ですから、1つのデバイスに依存するアプリ形式だけだと、ビジネスの幅が狭くなり厳しい。今のところベストは、同じ内容のメルマガをテキスト配信、HTML配信、アプリ配信と複数の環境で配信することだと考えています。ちなみに、「BOOKSTAND」のメルマガは、この3つでユーザーが楽しめるようになっています。
――ビジネスモデルは、ユーザー課金だけですか?
原:主にユーザー課金です。ただし「BOOKSTAND」では、単にテキストを有料販売しているというのではありません。いわば昔のファンクラブのシステムが進化したものと考えておりまして、さまざまなユーザー課金の仕方があります。例えば、「水道橋博士のメルマ旬報」は、昨年度メルマガとしては(たぶん)初のフェスイベントを恵比寿ガーデンホールで実施し、イベントのチケット販売をメールマガジンを通じて実施。約1200人の動員ができました。また、エレキコミックさんと運営しているメールマガジン「エレマガ。」は、コラムだけでなく音声コンテンツ、映像コンテンツも1号にまとめて配信しています。そして、今月からは、彼らのライブ映像「等等」を、まるごとサイト上で有料購入できる試みを始めました。(https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=elecdvd)。
――イマドキの有料メルマガは、有料でテキストを販売しているわけではないんですね。
原:そうですね。単にテキストメールを売るビジネスではなく、メールアドレスをIDアカウントとして、そこからさまざまな文字や音声、映像といったコンテンツを販売するビジネスだと考えています。
⇒【動画】観る・聴く・読む エレキコミックのメールマガジン「エレマガ。」http://www.youtube.com/watch?v=bYC_RLuCyN8
――有料メルマガで成功するコツはありますか?
原:著者にとって有料メルマガは、始めることよりも継続することが一番のストレスになります。だからこそ、運営側がその都度、編集者として最大限のサポートをすること大事ですね。そういったメルマガの数と質をマネジメントすることも運営側の仕事になりますし、それができれば、有料メルマガは、まだこれからもビジネスとして成長するのではないでしょうか。
SNSやアプリなどがブームになっている裏で、有料メルマガも、だだのテキスト販売から独自の進化を遂げているのだ。 <取材・文/日刊SPA!取材班>
●BOOKSTAND https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/
「これを男性限定にしておくなんてもったいない! 」。2014年9月に東京都足立区にオープンした「カプセルホテル SLEEPS北千住」へ初めて訪れた際に抱いた感想だ。様々な路線が乗り入れる注目の北千住駅の千代田線出口から徒歩2分。外見からして、カプセルホテルのイメージを覆すモノトーンのデザインが印象的である。
「カプセルホテル SLEEPS北千住」は2014年9月にオープン
バーにサウナ付き大浴場も
館内に入るとスタイリッシュながらウッディな暖色を配し、”癒やし”のイメージも演出。カプセルホテルでは初めて見る「お持ち帰りスリッパ」の採用をはじめとし、清潔感を気遣う館内。キレイ好きな女性にも好まれることを確信したのだった。
フロントにも高級感が漂う
お持ち帰りスリッパ
美しい洗面周り
更衣室の天井
カプセルホテルといえば食事処は定番だが、そこは大衆食堂といったイメージがある。つまみでビールをあおるおじさん、といったところをつい想像してしまう。ところがこちらにはオシャレなバーまで設けられている。これまた女性同伴が似合うスペースだ。
つい長居してしまいそうになるバーも設置
高級ホテルの会員制スパのような更衣室の奥は、まるでリゾートホテルにいるような大浴場。サウナにジェットバス、水風呂なども併設。ゆっくり癒やされていく。もちろん、ボディーケアも完備。専門の施術師によるボディーケア・フットケア・リンパケアと充実の内容だ。
大浴場ではまるでリゾートにいる気分に
カプセルスペースは抜群の寝心地
カプセルスペースは就寝場所のため照度に気遣うスペースであるが、これほどセンス良い照明はカプセルホテルでは希有である。全体的にダークトーンでまとめられていることに加え、カプセルユニットの質感も高級感が漂う。
センスの良さが光るカプセルスペース
カプセル内はシーツやピローケースが「張力」をもってセット。この張力にも、カプセルホテルの実力が現れている。見た目も肌触りも気持ち良く、寝心地もこれまで経験したカプセルホテルでは上級クラスだ。
肌触りのいいピローで朝までぐっすり
リラクセーションルーム(休憩室)には、大ぶりなリクライニングソファが並ぶ。カーテンで区切られているのでプライベート感も抜群。漫画約4,000冊にパソコンブースまでも。ゆったりくつろげそうだ。
オープニングキャンペーンとして8月末まで、通常4,100円~4,900円のプランが、何と全室3,300円で泊まれると大きくエントランスに掲示されていた。しかも、チェックイン14時、チェックアウト13時と利用できる時間が長い。全てが驚きである。
もちろんカプセルホテルは大人の施設だが、これほど”大人”が似合う空間を演出するカプセルホテルは貴重と言えるだろう。こちらは男性限定のカプセルホテルのため女性に利用してもらえないのが残念なところ。ぜひ、女性にもサービスを拡大していただきたい。
※記事中の情報は2015年3月取材時のもの
筆者プロフィール: 瀧澤 信秋(たきざわ のぶあき)ホテル評論家、旅行作家。オールアバウト公式ホテルガイド、ホテル情報専門メディアホテラーズ編集長、日本旅行作家協会正会員。ホテル評論家として宿泊者・利用者の立場から徹底した現場取材によりホテルや旅館を評論し、ホテルや旅に関するエッセイなども多数発表。テレビやラジオへの出演や雑誌などへの寄稿・連載など多数手がけている。2014年は365日365泊、全て異なるホテルを利用するという企画も実践。著書に『365日365ホテル 上』(マガジンハウス)、『ホテルに騙されるな! プロが教える絶対失敗しない選び方』(光文社新書)などがある。
「ホテル評論家 瀧澤信秋 オフィシャルサイト」
ミニストップは3月27日より順次、「あまおう苺ソフト」「あまおう苺ミックスソフト」を、国内のミニストップにて発売している。
左「あまおう苺ソフト」、右「あまおう苺ミックスソフト」(各220円・税込)
福岡県産「あまおう苺」使用のフレーバーソフトクリーム
同社では、100年に1度の「苺(15)year」の今年、季節に合わせ「苺」を使用したコールドスイーツを発売している。同商品は2015年第2弾で、福岡県産のあまおう果汁を使用したフレーバーソフトクリーム。だんだんと暖かくなり、ソフトクリームなどの冷たいスイーツの販売が伸び始める季節に合わせて発売する。
苺の中でも、高級品種として人気の高い福岡県産の「あまおう苺」を使用。使用量は、2013年に発売した「あまおう苺ミルクソフト」に比べ2倍となり、そのため、苺本来の甘酸っぱい味わいを感じることができるという。
実験販売時は、苺の味わいをストレートに楽しめる「あまおう苺ソフト」は男性に、バニラとあわせてミルク感も楽しめる「あまおう苺ミックスソフト」は女性に好評だったという。「あまおう苺ソフト」と「ミックスソフト」で味わいの変化が楽しめる、期間限定の味わいになっているとのこと。
価格は、各220円(税込)。関東・東海・近畿は、3月27日より順次発売開始。東北・四国・九州は、4月3日より順次発売開始予定。4月10日より全国発売となる。