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良い行いに嫉妬していない?「偽善」呼ばわりする人は劣等感がある証拠/大人女子と子供おばさんの恋愛の違い

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良い行いに嫉妬していない?「偽善」呼ばわりする人は劣等感がある証拠/大人女子と子供おばさんの恋愛の違い

良い行いに嫉妬していない?「偽善」呼ばわりする人は劣等感がある証拠/大人女子と子供おばさんの恋愛の違い

 

■第91回:偽善者に敏感になってない?

 言葉というのは、人に幸せや元気を与えることもあれば、逆にひどく傷つけ、相手の可能性を奪ってしまうこともあります。

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 子供おばさんは、人に対して安易に「偽善!」という言葉を使います。
例えば、ボランティア活動をしている人に対しても、その人に少しでも「自分を良く見せたい」という欲があると思うと、そんな言葉を浴びせます。

 大人女子は、「偽善」といった言葉をそうそう使いません。
たとえボランティアをしている人が、「自分を良く見せたい」と思っていたり、たとえ自分のメリットの考えて活動していたとしても、本当に人を助けているのであれば、助けられた人にとっては、良い行いだと分かっているからです。

 あなたは、「偽善」だという言葉を使って、良い行いの芽を摘んでいませんか?

■恵むことで、自分が救われることもある

「与える人は与えられる」というのは、この世の法則です。中には、「与えられたい」という下心があって、与える人もいるかもしれません。
でも、褒められたり、喜ばれたりすると、嬉しくなって、本当に“与えられる人”になってくるものなんですよね。

 だから、もしまだその下心がある段階の人であっても、「偽善」という言葉を浴びせるのは、その人の可能性を潰すことにもなるのです。

 托鉢という行為を知っていますか?
これは、修行僧が鉢を持って信者の家々などを巡って、食糧や金銭をいただく修行なのですが、お釈迦様は修行僧たちに、「貧しい人のところから周りなさい」とおっしゃったそうです。

 人は、人に恵むようになったときに、救われることもあります。
それは、自分が「恵む」という行為を通して、「自分にもそういう力があるのだ」と自信を持ち、さらに感謝されることで、幸せ感を得ることもできるからです。

 ボランティア活動をしている人の中にも、シンプルに人を助けたいという慈悲深い人もいれば、中にはその活動を通して生きる意味を見出そうとしている人もいるかもしれません。
それも素敵なことなんです。安易に「偽善」という言葉を使うのは、言葉の暴力ですよ?

■偽善ってなに?

 そもそも偽善とは、なんでしょうか?
例えば、困っている人に対して手を差し伸べているように見せかけておいて、実際はそんな活動を一切やっていない(=役立っていない)場合は、ある意味、「偽善者」と言えるでしょう。
でも、もしその時、その人を助けているのであれば、その行為に偽善もなにもない。それは紛れもなく、良い行為です。

 たとえ「自分が良い人に見られたい」という下心があったとしても、その行為が人の役に立っているのであれば、良い行い。やらないよりは、やった方がいいに決まっています。
そんな良い行いをしている人に対して「偽善者だ」と言って、何もしないで文句ばっかり言う人に比べたら、100倍いいでしょう。

■それは偽善じゃない!

「偽善」という言葉が使われやすいシチュエーションというのは、どんなのがあるでしょうか?
例えば、「あなたのためにやっているのよ!」と言っておきながら、実は自分が相手に必要とされたいだけで、相手をダメにしてしまうおせっかいを焼いている人には言いたくなるでしょう。
でも、それは偽善どころか、「人を不幸にする誤った行為」です。

 さらに、影で人をいじめておきながら、表向きでは、「いじめ反対!」なんて言う人がいたら、それは、偽善を通り越して、「嘘つき」であり「悪い人」です。
偽善なんて言葉で片付けるのは、間違っています!

 逆に、あるときは人を助け、あるときは助けられなかったら、 「やっぱり偽善者だ!」なんて言われそうなものですが、それは偽善者ではありません。
人には限度があるもの。親切な行為をするにしても、無理をし過ぎて、自分を不幸にしてはダメです。

 良い行いは、自分が出来る範囲のことでいいのです。むしろ、無理しない方がいい。無理してしまったら、“あなたという1人の人”を不幸にしているからです。

■嫉妬していない?

 人前で良いことを行う人に対して、「偽善だ」と言う子供おばさんに問いたいことがあります。

「逆に、100%善人なんて、いると思っているの?」

 人の中には、天使も悪魔も住んでいる。強さも弱さもあるもの。良いことばかりを言う人は、単に「いい人だから言う」わけでもない。
人前で言葉の毒ばかりを吐いて、相手に不愉快な思いをさせたってしょうがない。悪いことを言っても、意味がないから言わないだけのこともあるのです。

 実は、「偽善」という言葉を使う人が、どんな思いを持ってその言葉を言っているのかで、その人の本質が見えます。
中には、自分にはできない良い行いをする人に対して、嫉妬している人もいます。良い行いをする人を引きずり落とし、自分と同じレベルにすることで安心する人もいます。

 要は、劣等感を持つ人(=自分の弱さに負けてしまっている人)が言っていたりもするのです。

 劣等感をなくした時、自分をもっと受け止められるようになり、人に対しても優しい気持ちが持てるようになります。そうしたら、「相手も頑張っているんだな」って、応援したくもなるものです。
相手も自分も不幸にするのではなく、もっと自分も相手も幸せになれる道を歩みませんか?

■愛に溢れた人は、「偽善」なんて言葉は使わない

 残念ですが、人間は、100%人のために愛を注げるような、そんな“完全なる存在”ではありません。

 相手のため“だけ”ではなく、自己重要感を高めたかったり、人に認められたかったり、自分をもっと好きになりたったり、得したかったりと、どこか自分のためにやっていることもあるでしょう。

 それでも、良い行いはいいこと。それを子供おばさんのように、「偽善」という言葉で攻撃し、良い行いを否定し、奪ってしまうのは、ある意味、卑劣な行為です。

「偽善」だと言う人は、だったら自分がやってみたらどうでしょうか?

 もし、100%の愛だけを持って良い行いが出来たら、 それは100歩譲って、そうではない人を「偽善」と言ってもいい。
でも、そんな愛に溢れた人だったら、「偽善」なんて言葉は使わないでしょうね。
愛情と優しさ、心の強さを増やしていける人でありたいものですね。

Text/コラムニスト・ひかり

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