社会そのほか速
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赤ちゃん本舗(大阪市)が子育て中や妊娠中の女性に聞いた調査で、「自分の子どもにこうなってほしいと思う人」の1位に、フィギュアスケートの羽生結弦選手が輝いた。目標に向かって努力する姿や、しっかりとした受け答えの様子が頼もしく、「強い意志で自分の未来を切り開いている」と評価する声が多かった。
2位もフィギュアスケートで活躍する浅田真央選手。3位にはタレントのベッキーさんが選ばれた。大リーグのイチロー選手や、テニスの錦織圭選手も上位に入った。
「理想のママ」を尋ねたところ、1位は愛情たっぷりのイメージだという元プロレスラーの北斗晶さんだった。
日米合同追悼式に出席したケネディ元米大統領のおいのマクスウェル・ケネディ氏(右から2人目)と新井勲さん(右端)、特攻隊員遺族の小川陽子さん(手前左)ら=21日、群馬県邑楽町
太平洋戦争末期に群馬県邑楽町と栃木県足利市で墜落死した米軍機の乗員を追悼する日米合同追悼式が21日、同町の清岩寺で開かれた。米軍横田基地の兵士のほか、ケネディ元米大統領のおいのマクスウェル・ケネディ氏(50)も出席し、地元住民らとともに冥福を祈った。
1945年2月10日、群馬県太田市の戦闘機製造工場を爆撃するため飛来したB29爆撃機2機が接触し、邑楽町の水田に墜落して米兵23人が死亡。同16日、隣接する足利市で米軍機が日本軍の高射砲攻撃で墜落し、乗員3人が死亡した。
墜落に触れたマクスウェル氏の著書を読んだ横浜市の新井勲さん(80)が寺に働き掛け、2年前に建立されたB29乗員の慰霊碑の隣に、新たに3人の鎮魂碑が建てられた。
マクスウェル氏は「70年前に亡くなった両国兵士に合同での追悼を伝えたら驚くだろう。追悼式は当時の憎しみを乗り越えた結晶だ」と述べた。
広島市の土砂災害の体験談集を発行した、元消防士の柳迫長三さん(左)と広島大大学院の海堀正博教授=18日、同市役所
74人が亡くなった昨年8月の広島市の土砂災害を後世に伝えるため、被災者144人の証言をまとめた「体験談集」が発行された。「玄関を突き破り土砂が流入してきていた。生まれて初めて死を意識した瞬間だった」「一瞬のうちに身体が流され柱にぶつかった。水が胸まで漬かった」。発生直後の混乱や懸命に逃げた様子が、生々しく記されている。
証言は、元消防士の柳迫長三さん(64)=同市安佐北区=らが被災地を回って集めた。柳迫さんは広島県内で32人の死者・行方不明者を出した1999年の土砂災害で救助活動に従事した。退職後は地元で防災を指導してきたが、多数の犠牲者を出す土砂崩れが再び発生し、自責の念に駆られた。「災害はまた起こる。どうしたら防げるのか」と思い悩み、「経験をきちんと伝えていかなければ」と証言を集めることにした。
体験談集では発生前後の様子について、「『地震かな』と思っていたら、壁とガラス戸が私と子供2人に倒れかかり、斜めになった壁を必死で支えた」(安佐南区の女性)、「妻が『焦げ臭い』と言い出した。(数分後)家に土砂が入ってきた」(安佐北区の男性)、「(車で逃げようとした際)大きな石が車に当たる。ドーン。車が大きく揺れる。暗くて周りが見えない」(同区の女性)など、緊迫した様子を伝える証言が続く。
「ベッドごと流され、九死に一生を得た」という安佐南区の女性は、「(避難は)自分で判断して早めに行動すべきだ。特に老人にとっては」と呼び掛ける。同区の男性は「どの部屋にも懐中電灯と履物を人数分用意しておくことが大事」と指摘した。
共著者の海堀正博・広島大大学院教授は「災害の状況が生々しく分かり、将来の防災に寄与するものだ」と話している。体験談集は地元の公民館や図書館に置かれる予定。
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設に反対する集会が21日、名護市辺野古を見渡せる対岸の同市瀬嵩で開かれ、半年ぶりに再開された海底ボーリング調査の中止を求めた。約3900人(主催者発表)が海に向かい、「埋め立て止めるぞ」「新基地反対」とシュプレヒコールを上げた。
この日もボーリング用台船に作業員らが乗り降りしている様子がみられた。沖合では午前から、反対派市民や県選出の国会議員が小型船やカヌー数十隻で抗議。立ち入り禁止区域付近では海上保安官らが「刑事特別法で処罰の対象となります」と警告し、にらみ合いとなった。
集会であいさつに立った名護市の稲嶺進市長は、政府の強硬姿勢を批判し、「まったく正当な理由がひとつもない。とてもじゃないが許さない」と訴えた。
太平洋戦争末期に群馬県邑楽町と栃木県足利市で墜落死した米軍機の乗員を追悼する日米合同追悼式が21日、同町の清岩寺で開かれた。米軍横田基地の兵士のほか、ケネディ元米大統領のおいのマクスウェル・ケネディ氏(50)も出席し、地元住民らとともに冥福を祈った。
1945年2月10日、群馬県太田市の戦闘機製造工場を爆撃するため飛来したB29爆撃機2機が接触し、邑楽町の水田に墜落して米兵23人が死亡。同16日、隣接する足利市で米軍機が日本軍の高射砲攻撃で墜落し、乗員3人が死亡した。
墜落に触れたマクスウェル氏の著書を読んだ横浜市の新井勲さん(80)が寺に働き掛け、2年前に建立されたB29乗員の慰霊碑の隣に、新たに3人の鎮魂碑が建てられた。
マクスウェル氏は「70年前に亡くなった両国兵士に合同での追悼を伝えたら驚くだろう。追悼式は当時の憎しみを乗り越えた結晶だ」と述べた。