社会そのほか速
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1月13日の取締役会で自分が社長を解任されたのは、「クーデターだと思っている。社員はテロだと言っている」。大塚家具の創業者、大塚勝久氏は2月25日の記者会見でそう語った。大塚家具の取締役会は7人で構成されるが、大塚家三女の夫が解任賛成に寝返ったため、創業者が社長の椅子から追放されることになってしまったのだ。
首謀者は、もちろん長女で現社長の大塚久美子氏だ。もともと仲の良かった親子に一体何が起きたのか。
久美子氏は勝久氏の後任として、’09年に大塚家具の社長に就任する。しかし、5年間社長を務めた後、昨年7月に解任されて勝久氏が社長に復帰した。5年間、業績が低迷したことや、経営方針を巡って親子の対立があったためだと言われている。しかし、たった半年で、再び久美子氏が社長に復帰。これが「クーデター」と呼ばれたものだ。
創業者の編み出したビジネスモデルは、会員制で良質な家具を高値で売ること。これに対して久美子氏は、割安な価格でカジュアルな家具を販売するというもの。どちらのビジネスモデルが正しいとは言えない。しかし、対立の解決方法は簡単だ。会員制の店舗とオープンで割安の店舗を併存させ、どちらの業績が伸びるのかをみればよいだけだからだ。
ところが昨年7月に社長復帰した勝久氏は、久美子氏の肝入りで作られた青山の北欧家具の店を閉鎖した。これに久美子氏が切れてしまったのだろう。
しかし勝久氏は、自分が社長に3度目の復帰ができると踏んでいたのだと思う。株主総会になれば、自分の勝ちが見えていたからだ。勝久氏の持ち株比率は、18%。妻が持つ2%を加えれば、20%の株を保有している。これに対して、久美子氏の実質的な持ち株は10%。まともに戦えば久美子氏の勝ち目はない。
ところが、一橋大学卒で元銀行員でもある久美子氏は、思いも寄らぬ手段に打って出た。7%を保有する米国の投資ファンド、ブランデス・インベストメント・パートナーズ投資ファンドを味方につけたのだ。このファンドは、さらなる株の買い増しをしているとも言われ、これで勝久氏と久美子氏の勢力はほぼ肩を並べたと言える。問題は、久美子氏がファンドを味方につけたやり方だ。久美子氏は、年間の配当を40円から80円へと倍増させると発表したのだ。
昨年の大塚家具は赤字だ。赤字でも50年以上経営を続けていれば含み資産があるから、配当自体は可能だが、タコ足配当をすれば会社は傷つく。…
匿名掲示板「2ちゃんねる」の仕様が変更され、いろいろなところに広告が表示されるようになった。同時に、2ちゃんねるを閲覧するための専用ブラウザ(専ブラ)も許諾制になった。これは2ちゃんねるの収益を上げるための措置だが、問題も起きている。
まず、利用できるブラウザが限定されてしまうという点だ。現在、9つのブラウザが対応しており、Windows版は「Jane Style」(http://janesoft.net/janestyle/)、「Live2ch」(http://www8.plala.or.jp/uro/live2ch/)、Mac版は「BathyScaphe」(http://bathyscaphe.sourceforge.jp/)、iOSは「BB2C」(https://itunes.apple.com/jp/app/bb2c/id298820042?mt=8)、Android版は「2chMate」(https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.airfront.android.a2chMate)、「En2ch」(https://play.google.com/store/apps/details?id=ms.salt.en2ch2)、「Ciisaa」(https://play.google.com/store/apps/details?id=com.gmail.aosoan.ciisaa)、「2chGear」(https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.emprise.android.x2chGear)、「2chA1Fox」(https://play.google.com/store/apps/details?id=com.momonga.a1)となっている。今後、「ホットゾヌ2」や「2tch」「twinkle twinkle for iOS」「mae2ch」なども対応する予定だ。有名どころはある程度サポートされるのでユーザーとしては一安心だが、開発を中止する者も多い。やる気があっても、2ちゃんの運営側からAPIの利用許諾が下りなかったり、開発者の個人情報を求められるため、断念したりするケースも出ている。
ユーザーは対応ブラウザを使えば、従来通り2ちゃんねるを利用できる。…
今年も大学受験のシーズンが終わった。エッセイスト、画家の肩書のほか、ワイナリーの経営者でもある東京大学文学部卒の玉村豊男(たまむら・とよお)さんは、人生の転機が大学在学中にあったという。
* * *
大学時代は人生のターニングポイントでしたね。
第二外国語を一つ究めたいと思って、なんとなくフランス語を選んだんです。日仏学院にも通い、3年から仏文に入りました。
奨学金をもらって1968年の9月にパリへ行き、70年の4月に帰ってきました。68年といえば、世界中で学生運動が盛り上がった年。パリでは五月革命が起こり、日本では翌年1月に東大の安田講堂事件が起きました。留学先の学校も閉鎖され、半年くらい授業が始まりませんでした。
暇だったので旅行でもしようと、年明けにドイツへ行きました。ユースホステルで出会った日本人がヒッチハイクを教えてくれて、それから放浪が始まりました。中欧から北アフリカまでずいぶんまわりましたね。
アルバイトも結構あったんです。JALのパリ支店へ行くと通訳の仕事を紹介してくれたので、お金がなくなると、パリに戻ってきて。勉学はあきらめた、という感じでした(笑)。
でも、この旅のおかげで各国の食文化に興味を抱き、そこから食べ物にのめり込んでいったんです。帰国したのはちょうど大阪万博があった年。通訳のアルバイトがたくさんありました。海外旅行も増え、ツアコンの仕事も多かった。大学4年で帰国したので、就職のことはちんぷんかんぷん。「またフランスへ行きたいな」という理由で、JAL本社の人事課に押しかけて、「就職したいんですけど」と言ったけど、門前払い(笑)。その足で奨学金をくれた事務局へ行ったら、同系列のフジテレビの2次試験に特例で入れてくれた。でも、マラソンまでやらされ、こりゃ気質が合わないと思い、辞退しちゃった。
通訳や翻訳で食いつないでいるうち、自分で書きたくなり、片っ端からエッセーなどの懸賞に応募したら、「アサヒタウンズ」で1等をもらいました。そのあたりから文章で身を立てていくことになりました。
今はワイナリーもやっていますが、大学生のときはそんなこと夢にも思ってなかった。人生何が起こるかわかりません。だから、大学時代に自分の人生を決めようなんて思わないほうがいいんじゃないかな。みんな、自分の人生は自分で選んでいると思っているけど、そんなに選択肢はないんです。…
つらかった受験生活が終われば、花のキャンパスライフが始まる。東京大学教養学部卒で月読寺(鎌倉市)住職の小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)さんは、大学時代をこう思い出す。
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大学時代の楽しい思い出は、駒場寮(東大駒場キャンパスに2001年まであった学生自治寮)の日々に集約されています。入試のとき、たまたまもらったパンフレットを見て、「面白そう!」と即決。大学側は違法としていたので電気が通っておらず、パンフレットには、「電気ドラムで自家発電しています」と。興奮し、入学前に入寮しました。入ってみたら、ガスまで止められ、定期的に近くのガソリンスタンドへ行っていました。
当時は数十人ほどの寮生がいて、24畳の部屋を2人でシェアしていました。私のルームメートは物理学専攻の学生で、「愛を波動方程式で表したい」が口癖。映画によく誘ってくれて、2人で延々と映画の話をしていました。嫌だったのは、彼がエッチな本を山のように積み、私のスペースへ崩れてくること(笑)。寮に残るために留年し、30歳で学部生という飄々とした味わい深い人、パンの耳しか食べない哲学者もいました。隣の部屋の数学基礎論の院生はすごい左翼なんですけど、木刀を振り回す、一見ゴリゴリの右翼。競争社会を否定し、「純粋数学でさえ権力や政治の影響を受ける」と説いていた。
ハードな反体制派もいたけど、私のようになんとなく入った人もいて、みんなでいつも議論していました。
一方で、大学時代は七転八倒した時期でもあります。心が荒れ、両親との諍いが絶えなかった。付き合った人が既婚者とわかり、その夫に付け回されたり、恋人がストーカーになって自殺未遂を起こしたこともあります。4年生のときに結婚しましたが、長くは続きませんでした。人を虐げると、自分に返ってきますから、とてもつらかったです。体調も優れず、「哲学は自分を助けてくれない」と思いました。そんなとき、住職をやっている父親に座禅瞑想の修行を勧められました。試しに1週間やってみたらすごくよかった。考えることを停止すると、いかに心が平穏になるかを感じました。瞑想をするようになったのはそれからです。
大学院で哲学者になる道も考えました。院試の願書を出しましたが、前日にやめました。院生を見ていると、「いい論文をたくさん出さなきゃいけない」というプレッシャーでしんどそうで私には向いてない。「考える」という行為から離れたかったのもあります。…
テレビ朝日アナウンサーで「報道ステーション」のスポーツコーナーを担当する京都大学経済学部卒の青山愛(あおやま・めぐみ)アナ。京大在学中は、わが道をいく生き方をしていたという。
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京大への入学は、私にとっては大きなカルチャーショック、“異文化”との出会いでした。
「みんな髪の毛が黒い、まじめ!」
そんな当たり前のことに驚いてしまって。私は父の仕事の関係で通算12年間、米国で暮らしました。
12歳から高校2年までを過ごしたテキサスは白人社会で、日本から来た私は完全なマイノリティーでした。初めのころは、ランチを一緒に食べる友達もできなくて、泣きながらトイレでお弁当を広げたことも。
転機は高校でカラーガードという、日本でのバトン部のような部活を始めたことです。私を「日本人」ではなく一人の友達として見てくれる親友もできて。人種の壁は絶対に乗り越えられる。異文化を受け入れ、理解しようとする私の土台になりましたね。
高校3年で帰国したんですが、編入先は国際基督教大学高校。生徒の3分の2は帰国子女で、廊下でも英語が飛び交って、あまり日本という感じはありませんでしたね。
だからいっそう、京大の雰囲気にびっくりしました。これが日本の優等生の世界なのか、と。ある意味、ここで初めて「日本らしい」考え方や文化に触れたように思います。
志望理由ですか? 私、ちょっとあまのじゃくなところがあって、みんな東京の大学に進むので、地方に行こうと思ったところもあります。海外が長いので、伝統文化が色濃く残る京都の地にも魅力を感じました。
高校時代と環境は一変、帰国生は学年に16人です。この中で、自分の強みは何だろうと、よく考えました。そこで、2回生の後期から、京大の交換留学制度を使ってペンシルベニア大に行くことにしました。
この留学がまた、視野を大きく広げてくれました。いままでは、国際感覚があると自負していても、結局は日本と米国しか知らなかった。井の中の蛙です。
毎晩2時3時まで勉強して、世界各国の留学生と話し合い、
「私は世界のほんの一部しか見ていない」
ということを認識できたのは大きな財産ですね。欧米だけではなく、世界中に目が向くようになりました。留学中にモンゴルへボランティアにも行きました。
こうした交換留学だけではなく、京大には、視野を広げる機会がたくさん待っています。自分の道を自分で作っていく人も多い。新入生のみなさんには、ぜひ、いろいろな扉をたたいて、「自分らしさ」を見つけてほしいと思います。
私も、大学では相当、わが道をいっていたと思います。今だから白状しますが、当時は完全にアメリカ風メイクで、レディー・ガガみたいだったらしいんですよ(笑)。
※週刊朝日 2015年3月20日号