社会そのほか速
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1989年に東京都狛江市で見つかった男性の遺体について、警視庁が身元の確認が不十分なまま火葬して無関係の家族に遺骨を返し、死亡届が出されていたことが警視庁への取材で分かった。昨年12月、東京家裁から同庁に「死亡届が出された男性が生存していた」と連絡があり、発覚した。同庁は生存していた男性や捜索願を出していた家族に謝罪するとともに、改めて遺体の身元確認を進めるとしている。
同庁刑事総務課によると、89年12月、狛江市内の公園で中年男性の遺体が見つかった。調布署による司法解剖の結果、死因は心不全と判明。翌90年1月に家出人捜索願が出された調布市在住の40代の男性(当時)と特徴が似ていたため、妻やきょうだいに確認したところ「本人に間違いない」と話したという。このため、調布署は遺骨を家族に返し、死亡届が出された。しかし、実際には男性は生存しており、男性が家裁に申し出たという。
同課の加藤芳雄課長は「身元を誤認したまま遺骨が引き渡されたことは誠に遺憾。本件を教訓として改めて再発防止を図る」と話した。【松本惇】
12日午前3時に台風3号が発生。名前は「バービー」です。赤道を挟んだ、南側にはサイクロンがあり、名前は「パム」。サイクロンは明日にかけて発達し、スーパーサイクロンに。
世界の気象衛星画像
台風3号「バービー」発生
今日の午前3時に台風3号が発生しました。
台風3号の名前はベトナムが用意した「バービー」。
人形のバービーではなく、「ベトナム北部の山」の名前です。
台風3号は日本のはるか南東の海上、マーシャル諸島で発生しましたが、
この付近の台風は10年ぶりと比較的珍しいことです。
北緯10度より南で、東経165度より東側で発生した台風は
直近では2004年12月の台風28号、
次いで1997年12月の台風28号、
1995年4月の台風1号、
1992年11月の台風30号
1992年2月の台風2号
と台風シーズンではない時期に発生したものが多くなっています。
また、例年、この付近の海面水温はこの時期が一番高く、
夏になると太平洋側西部で高くなり、この付近は低くなる傾向があります。
赤道を挟んで南側にはサイクロン「パム」
台風3号と赤道を挟んだ南側にはサイクロンがあります。名前は「パム」。
ニュージーランド気象局によると
明日にかけて発達し、
中心付近では時速200キロと新幹線並みの猛烈な風が吹き荒れる
スーパーサイクロンになりそうです。
3月14日に控えるJR各社のダイヤ改正。その中でも、大きな目玉となっているものが北陸新幹線の開業と上野東京ラインの開業である。特に、上野東京ラインは今まで山手線東側で旅客流動のボトルネックとなっていた上野~東京間を東海道線・常磐線・高崎線・宇都宮線が直通することになり、東京の人の流れに大きな変化をもたらしそうだ。
鉄道専門誌の記者は、上野東京ライン開業の効果について、次のように話す。
「上野~東京間は東京都内どころか日本でも一番混雑している区間。平成25年度のデータでは、上野~御徒町の京浜東北線の乗車率は200%にも及んでいます。多くが常磐線や高崎線・宇都宮線からの乗り換え客だと思われるので、上野東京ライン開業によってこの混雑率は大幅に緩和されることが期待されます」
さらに、直通運転によって横浜など首都圏南部と北関東の移動が今まで以上にスムーズになるという効果もある。
「2001年に湘南新宿ラインが開通し、高崎線・宇都宮線と東海道線が直接結ばれた。これによって都内と横浜、北関東の旅客流動が活発化しましたが、それに匹敵する影響があると思います。大宮から乗り換えなしで横浜に行こうとすれば、今までは湘南新宿ライン経由の列車に乗るしかありませんでしたが、これからはどの列車に乗っても乗り換えなしになる。さらに、湘南新宿ラインが通らない川崎にも行きやすくなる。上野東京ラインは極めて大きなメリットがあるでしょう」
とは言え、メリットばかりとも言い切れないのが世の常だ。
※次回は上野東京ライン開業によるデメリットを検証します⇒「課題は輸送障害への対応力」 http://hbol.jp/28576
<取材・文・撮影/境正雄(鉄道ジャーナリスト)>
「なごり雪」の伊勢正三(いせ・しょうぞう)、「木綿のハンカチーフ」の太田裕美(おおた・ひろみ)、「学生街の喫茶店」の大野真澄(おおの・ますみ)。70年代に数々のヒット曲を飛ばした3人がいま、「なごみーず」というユニットで活動している。ファンからの絶大な人気を誇り、コンサートはなんと10年間で200回を超える。還暦を超えてもなお、全力疾走し続ける彼らが司会に音楽評論家・富澤一誠を交えて過去と未来を熱く語った。
* * *
――3人で10年も続いたのはなぜでしょうか?
大野:めちゃくちゃ難しい質問だね。無理していないところかな。お客さんもそうだけど、グループ内も本当に和んでいるんですよ。そういう雰囲気が伝わって、本数も増えていったのかな。
伊勢:あとは、ライブの後の打ち上げのためかな(笑)。
太田:毎回必ず近くのファミレスみたいなところで乾杯してね。
――3人とも70年代にヒット曲を出してから、しばらく表舞台に出ていなかった時代がありましたよね。
太田:そういう境遇も3人とも似ているんですよ。
大野:16〜17年間は表の仕事をしていない時期があった。歌手活動を再開したのは90年代に入ってから。
伊勢:僕は、93年に6年ぶりのアルバムを出して、復活と言われたけど、勢いが続かなかった。00年代に入ってから、ボーカルに誘われて、二郎ちゃん(杉田二郎)とコンサートをやり始めた。そのときはすごく嬉しかった。もしかして自分は嫌われ者なのかなって思ってたから(笑)。
――2人はもともと親しかった?
伊勢:かぐや姫時代から、楽屋でガロの3人とよく一緒になって、仲良かったね。音楽的なことを学んだのは、ガロとオフコースですね。でも、個人的に会ったり飲みに行ったりはしてなかったよね?
大野:正やんの犬を預かったことはある。うんこ漏らしちゃった子。音楽的な交流はなかったけど、友達関係はあったよね。
伊勢:同じ時代に喜びと痛みを分かち合った間柄だった。昔から培った信頼関係があったから、なごみーずに誘うときも、ボーカルの顔がぱっと浮かんだ。
――やはり伏線があったんですね。太田さんは、なごみーずを始める前は、何をしていたんですか?
太田:子どもたちが幼稚園に入った94年から、ちょっとずつライブを始めていました。すぐにコンサートが増え、コマーシャルソングも歌っていましたね。ちょうどインターネットが広まっていくころで、ファンサイトもできて、ファンの方々が盛り上げてくれたというのが大きかったみたい。…
「なごり雪」の伊勢正三(いせ・しょうぞう)、「木綿のハンカチーフ」の太田裕美(おおた・ひろみ)、「学生街の喫茶店」の大野真澄(おおの・ますみ)の3人が2004年に結成した「なごみーず」。還暦を超えてもなお、全力疾走し続ける彼らが、太田裕美デビュー当時のお互いの印象や、誰もが知っている名曲を歌い続ける心境について熱く語った。司会は音楽評論家・富澤一誠。
* * *
──ところで、デビュー当時、太田さんは先輩の2人をどう見ていた?
太田:大野さんと初めて会ったのは、ペニーレインというフォークシンガーが集う原宿のバーでした。大野さんは飲み屋のおじさん。そういう印象しかなかったの。
伊勢:今もそのイメージは変わらないよね。
太田:デビュー当時は、よく学園祭に呼んでいただいて、風(伊勢正三が75年に結成したバンド)の前座もやっていました。正やんとは、そのころからご一緒しているんですよ。「君と歩いた青春」をカバーさせてもらったし、不思議な縁を感じますね。
──あの曲は名曲ですよね。
太田:「12ページの詩集」というアルバムで、イルカさんや宇崎竜童さんに1曲ずつ書いていただいたんです。正やんに頼んだら、まだ発売される前の風のアルバムから好きな曲を選んでいいと太っ腹なお答えがきたの。ポーンとカセットテープを渡されて、この歌を歌いたいと思ったのが「君と歩いた青春」。
──目利きならぬ、耳利きですね。
太田:ね、そうでしょ!? ファンのうけがよくて、コンサートで育ててきた宝物の曲なんです。でも正やんは「え、こんな地味な曲を選んだんだ」って思ったらしいんですよ。私が選んだ曲はこんな素晴らしいものだったじゃないかと、自分で偉いなと思う(笑)。
伊勢:でも、裕美ちゃんとはほとんど話もしたことがなかったよね。
太田:だって全然口きいてくれないんだもん!
伊勢:違う世界の人だと思ってた。アイドルだったから……。
太田:アイドルじゃないし!
伊勢:今でも十分アイドルですよ〜。まさかこの年になって、「木綿のハンカチーフ」を自分が演奏して、「いいえ〜♪」なんてコーラスするとは夢にも思わなかったね。これもまた、ぐっとくるんだよな。
──なごみーずのコンサートは、誰もが知っている名曲ばかりです。数え切れないほど歌っていると思いますが、心境の変化はある?
大野:コンサートの選曲もほとんど変わっていないんです。でも、その時々でいつも新鮮なんですよ。…