社会そのほか速
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美浦村木原の木原城址(じょうし)城山公園で、五万本のチューリップが見頃を迎え、彩り豊かに花を咲かせている。開花に合わせ、
公園では十二日午前十時から午後三時まで、農産品直売やポニー乗馬体験などがある「木原城山まつり」が催される。雨天の場合は
中止となる。
チューリップは、村が姉妹村だった新潟県の旧横越村(現新潟市)から毎年球根を購入し、栽培している。美浦村経済課によると、
今春は寒さのため、まつりより早く開花してしまう事態は避けられ、九日に、赤、黄、白、ピンク、紫、朱色など十一品種は八分咲きに。
村に寄せられたこいのぼり約二十匹と競演している。
友人と九日に訪れた美浦村土屋の主婦佐々木みつ子さん(82)は「三十年近く住んでいるけど、こんないい所があるなんて知らなかった。
紫やピンク色の花が珍しくてきれい」と笑顔で話した。 (増井のぞみ)
ソース(東京新聞) http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150410/CK2015041002000186.html
写真=見頃を迎えたチューリップ5万本と競演するこいのぼり=美浦村の木原城址城山公園で
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150410/images/PK2015041002100073_size0.jpg
日本自動車販売協会連合会は10日、2014年度に国内で取引された中古車(軽自動車を除く)が
過去最低の約367万台だったと発表した。輸出は約144万台で、記録が残る06年度以降で3番目の高水準だ。
車が売れない国内から海外に流れた中古車が、新興国市場で新車のライバルになる例もみられる。
国内の取引は13年度より6・9%減った。新車を含む自動車市場が縮んでいる上、消費税の引き上げが追い打ちをかけた。
円安が追い風となり、輸出は5・4%増だった。
中古車輸出を手がけるのは個人や零細企業が中心だったが、国内最大手のガリバーインターナショナルも
昨年末から初めて輸出に乗り出した。ニュージーランドに店を出し、日本から輸出した中古車を販売。
今後3年で30店に増やす計画だ。
ニュージーランドでは日本車の人気が高く、中古車に関税がかからないことに目を付けた。
今後、環太平洋経済連携協定(TPP)が発効すれば他の国でも中古車の関税が無くなる可能性があり、
同社広報は「国を超えて中古車を売買したい」と意気込む。
日本では買い手がつかず廃車にされることが多い「事故車」を専門に買い集めて輸出する業者も現れた。
さいたま市の「タウ」は、交通事故や災害で損害を受けた車を専門に買い取る。海外では、価格は安くなるものの、
事故車でも買い手が付くという。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150410003631_comm.jpg
http://www.asahi.com/articles/ASH4B4G62H4BULFA01T.html
「私の政治の師匠は小泉(純一郎)氏と森喜朗元首相だ。
2人の見識に接することができたのは喜びだ」(安倍晋三首相)
「今の仕組みはおかしな統治機構。国家運営ができていない。小泉純一郎元首相のような何千年に一度のリー
ダーがいないと運営できない。普通の人では無理だ」(橋下徹大阪市長)
何千年に一度のリーダーかどうかはともかく、2人とも小泉を称賛しているのが興味深い。
しかも、当の小泉は原発政策をめぐって安倍と敵対、面会を求めてきた橋下に対しても「会う必要はない」と拒否
している。
2人の思いは“片思い”なのだが、この思いをつなぐパイプ役も共通する。
小泉内閣で総務相など要職を歴任し、現在はパソナ会長の竹中平蔵である。
竹中は第2次安倍内閣の産業競争力会議などのメンバーを務め、事実上の政策司令塔として新自由主義路線を
推進している。
小泉内閣の官房長官などを務めていた安倍と竹中が近いのは分かりやすいが、橋下と竹中の関係も深い。
「橋下さんが国政進出を企んだ際に真っ先に竹中さんが近づいてきた。民主党政権下で政治力を発揮できなかっ
た竹中さんにとって橋下さんの勢いが魅力的やったんでしょう」(大阪維新の会・市議)
竹中が「橋下さんは物事の本質が見えている」「橋下さんの人気というのは革命の一環」と橋下を持ち上げれば、
橋下も「基本的な価値観、哲学は僕は竹中さんの考え方」と応じ、政策はどんどん「竹中化」していった。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/158825
竹中パソナ会長と橋下大阪市長
http://static.nikkan-gendai.com/img/article/000/158/825/74f0bfab903b196d0aaa8bd86811fd8720150409135831204.jpg
超低出生体重児に透析治療、世界で初成功 ポーランド
2015年04月10日 11:12 発信地:レグニツァ/ポーランド
【4月10日 AFP】ポーランドで体重820グラムの超低出生体重児として生まれた赤ちゃんが人工腎臓を使った
治療により一命を取りとめた。治療に当たった医師が9日、AFPに明らかにした。同様の治療での成功例としては、
世界最年少かつ最も小さい患者となったという。
出産予定日より約15週早く生まれたカミルちゃんは、誕生数日後に臓器不全に陥り生死の境をさまよった。
病院によるとこの時点で、従来の治療法では命を救うことができないことが判明していたという。
ポーランド南西部レグニツァ(Legnica)の病院で新生児集中治療を担当しているボイチェフ・コバリク(Wojciech
Kowalik)医師がAFPに語ったところによれば、カミルちゃんの腎臓には水が溜まり、むくみが生じる「浮腫」の
深刻な症状がみられたという。
カミルちゃんの命を救うためには、人工腎臓に繋ぐことが唯一の方法とされたが、この治療法ではこれまで、
極端な早産で生まれた患者での成功例がなかった。
通常、同様の治療方法は体重3キロ以上の新生児が対象となっていた。またレグニツァの病院では、この治療が
施された新生児10人のうち、効果があったのはそのうちの半数にとどまっていたという。(c)AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3045034
人工透析装置で820グラムの超未熟児を救命、ポーランド World first as artificial kidney saves 1.8-pound Polish baby
わずか820グラムという超未熟児として誕生したポーランドの赤ちゃんが、人工透析装置で命を救われた世界最年少の
患者となった。担当医たちが明らかにした。
カミル(Kamil)くんは間もなく生後5か月になる。健康そうに見えるが、幸運のおかげで生き延びることができた。
カミルくんは15週早く、超未熟児として誕生した。そのため臓器の機能が成熟しておらず危険な状態だった。
ポーランド西部レグニツァ(Legnica)の病院の担当医たちは彼の命を救うことを決意し、カミルくんに人工透析装置を
取り付けた。この装置は患者から送り出される血液の不純物を取り除き、きれいな血液を戻す。これまで体重3キロの
赤ちゃんに取り付けられた症例があったが、カミルくんの体重はそれを下回っていた。
欧米の基準からすると、ポーランド政府の医療支出は少なく、すべての病院に人工透析装置があるわけではない。
カミルくんは同国で最も知名度のある毎年放送されるチャリティー番組のおかげで、人工透析装置を取り付けることが
できた。この番組は23年にわたり1億6000万ドル以上の寄付を集めている。
カミルくんは5か月近く入院していたが、ようやく退院となった。映像は母親に抱かれる生後5か月のカミルくん(3月26日撮影)、
人工透析装置を取り付けられるカミルくん(撮影日不明)。(c)AFP
https://www.youtube.com/watch?v=WYNs7uP7ZG4
透析治療で一命を取りとめたカミルちゃん。ポーランド南西部レグニツァの病院で(2015年3月26日撮影)。(c)AFP/PIOTR HAWALEJ
http://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/8/9/1024x/img_89761b7e380bf5aa9c8931b69e9bf983167231.jpg
ポーランド南西部レグニツァの病院でカミルちゃんを抱く母親(2015年3月26日撮影)。(c)AFP/PIOTR HAWALEJ
http://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/f/c/1024x/img_fc9fce336b667bfe450d1c492086eac0151319.jpg
釜山で「ベトナム戦韓国軍民間人虐殺被害者の歴史的証言」懇談会
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2015/0409/142858990241_20150409.jpg
8日夜、釜山・中区の民主公園の小さな部屋で「ベトナム戦韓国軍民間人虐殺被害者の歴史的証言」懇談会が
開かれた。 この日、110席規模の同劇場には約280人の市民が集まった キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社
フォンニィ・フォンニャット村事件の生存者が証言
参加者「勇気を出してくれて感謝すると共に謝罪します」
「日本に過ちを謝罪させるためには
私たちが先にベトナムに謝罪しなければ」
「1966年2月13日日曜日未明、耳をつんざく砲声と銃声に村全体が震えました。 その日、私たちの村の住民65人
が韓国軍の犠牲になりました」。8日夜、釜山・中区の民主公園小さな部屋(小劇場)で開かれた「ベトナム戦韓国軍
民間人虐殺被害者の歴史的証言」懇談会に証人として立ったウンウイェントルロンさん(64)の声は震えていた。
つらい記憶を遡りゆがんだ彼の顔が涙で濡れていた。
110席規模の民主公園小さな部屋は、ベトナム生存者の証言を聴くために集まった市民約280人でぎっしりと埋まった。
ベトナム中部のビンディン省タイビンに暮らしていたウンウイェントンロンさんは「韓国軍はその日午後4時頃に家の
中にある地下待避所に隠れていた私と母親と妹を村の外の畑に連れ出した。 すでにそこには20世帯余りの住民が
集まっていた。 一人の軍人の号令とともに四方から銃弾が飛んできて手榴弾が投げられた。 私の足下で手榴弾が
爆発し、私は意識を失った」と証言した。 続けて彼は「私はその日の夜、叔父さんの家で目を覚ました。頭を砕かれた
妹は3時間うめきながら亡くなった。下半身がなくなった母親もまもなく息をひきとった。 孤児になった私を村の住民
たちが育ててくれた」と話した。
ソース:ハンギョレ 2015.04.10 06:18
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/20270.html
続きます