社会そのほか速
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[写真]スマートウオッチのPebble
アップルウオッチの発売を間近に控え、(まだ一部だが)世間の関心も高まってきている。スマートウオッチが私たちの生活をどう変えるかを考えようとしていたが、少し疲れてきた。スマートウオッチが高機能化してきているせいだ。
OSとして「Android Wear」を初めて搭載した「LG G Watch」が発売された2014年7月以来、同じスマートウオッチであるPebbleと並行して使ってきた。はじめのうちは、表示色が豊かでタッチスクリーンを搭載したG Watchを気に入って身に付けていたが、いまでは白黒ディスプレイのPebbleがメインのパートナーになっている。
G WatchもPebbleも、高級時計のような装飾性はないものの、スマートフォンの電話やメールの着信を振動で教えてくれ、サイレントモードにしているときや周囲が騒がしいときでも着信を逃すことはなく、間違いなく便利に使える。
操作をハードボタンで行うPebbleに対し、G Watchは操作を画面のスワイプで行う。最初のうちは、G Watchはシンプルで良かった。しかし、ランチャーアプリや乗り換え案内、ニュース、といったスマートフォンアプリがウエアラブルに対応し、アップデートを重ねてくると、このシンプルさが明らかに損なわれてきた。
左から右へのスワイプで済んでいたものが、上から下へのスワイプが加わり、次は左上から右へ、右下から左へと操作が複雑になってきたのだ。さらには、通知やカレンダー表示といった基本的な機能だけでなく、ウェブページや地図の閲覧、ニュースといった調べ物や読み物系のアプリがどんどん対応してくると、長文を読んだり、見出しや概要を読んだりと、目はスマートウオッチに釘付けになる。しかも、小さすぎる画面のなかで文字を読むという苦痛も伴う。
「歩きスマホ」は危険だという意識は高まってきているが、「歩きスマートウオッチ」はさらに危険だ。スマホの場合はまだ前方が視野に入っているが、スマートウオッチの場合、目は完全に下を向いている。だから時計は人の目を奪い続けてはならない。
デバイスにポテンシャルがあると、使えないと分かっていながら使いたくなるし、そのこと自体がストレスを招く。そんなアプリは消したり、設定でウエアラブルに非対応にすればいいだけかもしれない。その作業をいちいちしなければならないのも面倒だった。結果、常に手首に身につけるデバイスは、Android Wearではなく、Pebbleになっていった。
Pebbleは実にシンプルだ。良くも悪くも、通知以外に常用している機能はほとんどない。簡単なゲームも提供されているが、それはスマートフォンでやったほうが楽しい。スマートフォンのカメラシャッターを手元で操作できるという便利そうなアプリもあるが、ついぞ使ったことがない。
ウオッチフェイスに日時と天気、そして2週間表示のカレンダーが表示されていれば個人的には十分すぎる。時間や天気、そして通知を確認するには、ほんの“チラ見”をするだけでいい。
Pebbleは数日にわたってバッテリーが持つし、日中の明るい場所でも画面が確認しやすい。玉に瑕は、日本語表示に対応していないことだ。それでも有志が提供しているファームウエアを簡単な作業で導入すれば、まあ実用に耐える。
スマートウオッチは、そんなに賢くなくていい。時計よりちょっと便利なくらいの低機能でちょうど良い。アップルウオッチが覆してくれない限り、スマートウオッチの一番の便利さは、スマートフォンからの通知にあると今は考えている。
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
「もはや社食ではない」くらいイケてるとして有名な博報堂の社員食堂「100tables」。前回取材の際には、ストラテジックプラナーとして博報堂に中間入社した美人社員・伊尾木さんにインタビューを実施する過程で筆者が一方的に恋に落ちたものの、既婚者であることに気づいて勝手に玉砕……。そのエピソードについてはこちらの記事を読んでいただくとして、今回は2人目、新入社員美女の高田さんの登場です!
左:伊尾木さん 右:高田さん
お二人ともストラテジックプラニングの部署で、同社の名物ドリンク「ハニクラ」を見つめ合って飲んじゃうくらいには仲良しのようです。
( ̄ー+ ̄).。oO(新卒1年目ならさすがにまだ結婚はしてないだろ)との思惑から、すかさず左手の薬指をチェックする筆者。「100tablesの魅力をお伝えする」という主旨を完全に忘れたままインタビュースタート! 果たして筆者の淡い恋ゴコロは実りを見せるのか……!
新卒1年目の高田さんにオススメスイーツを聞いてみる
――前回、伊尾木さんにはランチメニューについてお伺いしたので、高田さんにはスイーツメニューについて教えていただければと思います!
高田さん:ふぁい、わかりまひた。
――あ、ちゃんと飲み込んでから話していただいて大丈夫です(笑)。いま召し上がってるのはなんですか??
高田さん:(モグモグゴックン)フルーツタルトです。
――おぉ……もはやデパ地下の洋菓子店に並んでるようなクオリティ……!
――先ほどディスプレイに並んでるメニューも拝見しましたが、もうネーミングや価格帯からして社食に置いてあるスイーツじゃないですよね(笑)。女性社員にとってはかなり嬉しいんじゃないですか??
高田さん:そうですね。仕事で疲れたときとか、甘い物食べたいなって思ったらすぐ買いに行けるので嬉しいです。デスクに持って行って食べる人も結構いますよ。
――僕なんかのイメージだと、女の子たちが「キャーかわいいー!!!」って叫びながらスイーツに群がって、毎日行列できたりするくらい人気なのかなって思うんですが……
高田さん:……いや、そういう子はいないですね。
(´-`).。oO(やっべ出だしからミスった……やはり同社にはミーハー精神バリバリの社員さんは少ないようだ。品のない質問してる自分が恥ずかしくなってきたぜ……)
高田さん:毎日通うというよりは、仕事で疲れたときに食べるか、特別なときに食べることの方が多いかもしれません。たとえば、部署の会議でたまたま男性社員が少ないときに、部長のおごりでみんなで甘いモノ食べながらその月の売上について話したりとか(笑)。
――おぉ、なんとうれしい心遣い! 御社にはそういう遊びゴコロというか、柔らかさを持ってる社員さんが多いイメージがあります。ちなみに高田さんの部署は、女性社員の方が多いんですか?
高田さん:いや、半々くらいですね。でも弊社の中では女性比率の高い部署で、伊尾木のような雰囲気のある女性が多いのでけっこう目立ちます(笑)。みんな仲良しなので女子会もしますよ。
――えー!!! 御部署にはお二人以外にもまだ美人社員がいるというのですか……! ( ゚д゚) お話し聞く限り、かなり楽しくて仕事しやすい雰囲気なんじゃないですか?
高田さん:そうですね。入社したときからみんな「ようこそ!」みたいな空気で迎えてくれたので打ち解けやすかったです。1年目だからっていうのもあると思いますけど、普段仕事の接点がない先輩でも気を使って声をかけてくれたり、社内行事の企画の仕方とかいろいろアドバイスくれるので心強いですね。
――高田さんは正直1年目には見えないくらい馴染まれたオーラを放ってますが、それは御社の先輩たちのウェルカムな雰囲気があってこそだったんですね(笑)
高田さん:そうですね。入社当時はわからないことばかりでテンパってばかりでしたけど…。電話取るのも大変で、転送知らずに切っちゃったみたいな(笑)。
――ありますあります(笑)。ところで高田さんは「100tables」をどのように使っていますか?
高田さん:忙しくて時間がないときや、残業していて小腹が空いたときにサクッとごはんを食べに来きますね。でも、どちらかというと飲み物を買いに来ることの方が多いです。ハーブティのリラックスブレンドとかキャラメルミルクティーとか、けっこう凝ってる飲み物が多いので。
――「100tables」ではお酒も飲めるようですが、高田さんはお仕事後にお酒を飲みに来たりしますか??
高田さん:いやぁ私お酒あまり得意じゃないのでほとんど飲まないですね。内定者懇親会や、新卒研修後のお疲れ様会みたいな、人事部が企画してくれるオフィシャルな飲み会のときにちょっと飲むくらいです。
(´-`).。oO(ありゃ、お酒飲まないタイプか……取りつく島が一向に見えてこないぜ……)
真面目に「博報堂に惹かれた理由」も聞いてみる
サンタ姿のナナちゃん(1983年撮影)
愛知県名古屋市中村区の名古屋駅の待ち合わせスポットとして。また、観光スポットとして定番の巨大マネキン人形「ナナちゃん」。名鉄百貨店前の歩道に設置され、初めて訪れた人は圧倒的な存在感とファッションセンスに度肝を抜かれることも多いだろう。そのファッションが常に話題となるナナちゃん。しかし、なぜ、ナナちゃんはここに存在し、これだけの名物になったのか。その生い立ちを探ってみた。
きっかけは、東京で見た「巨大マネキン」
[写真]ナナちゃん、アゴがはずれて地面を突き破ったことも
ナナちゃんのプロフィールは、1973年(昭和48年)4月28日生まれの41歳。身長約6メートル、体重約600キロ。公式サイトでは3サイズまで公表している。本業は名鉄百貨店の「広報部員」で、日々の業務を担っており、彼女にしか着こなせない最新ファッションを常に提案している。
次に生い立ちをひも解いてみると、1972年に名鉄百貨店が若者を対象とした新館「名鉄百貨店セブン館(現・ヤング館)」をオープン。その1周年を記念した“百貨店らしいシンボル”として、当時の担当者が東京のマネキン展示会で見つけたのが、インパクトのある「巨大マネキン」だった。ちなみに当時のセブン館にちなんだ『ナナちゃん』という名前は、この時期に一般公募で決定したという。
歩道に巨大マネキンを設置したことで「当時のお客様からはとにかく驚きの声が多かったと聞いています」と教えてくれたのは、名鉄百貨店広報宣伝担当の石田さん。「待ち合わせ場所にこの巨大オブジェを見て、『駅前の仏像の前で待ってるね』や、『銅像の前で集合』」という声をよく耳にしたそうだ。
設置当初は様々なファッションに身を包むことはなかったそうで、「ナナちゃんの一番最初の衣裳はエプロンでした。当時の名鉄百貨店セブン館では、夏と冬のクリアランスセールを『せぶんまつり』と呼んでおり、店員は全員、このセールの名前が入ったエプロンを着用して接客していました。このPRのため、ナナちゃんに同じものを着せようという発案で、年2回着用していました」と石田さんは続ける。
数年前から衣装替え頻度急増、出張経験もアリ
2015年2月からはセーラー服姿に。愛知啓成高校 生活文化科3年生の生徒により、卒業記念作品として作られた
2006年には一帯のエントランスをリニューアル工事したため、ナナちゃんは一時的に休暇を取ることに。ちなみに翌年には、名古屋の繁華街・栄にある愛知芸術文化センターへ「おでかけ」したこともある。
数年前からは衣装替えの頻度も急増し、昨年は1年間で27回も新衣装をお披露目。「安さに驚いてアゴが外れてしまったり、日頃の感謝を込めてお辞儀をするなど、ナナちゃん自体に動きがあるときは大きな反響があります。また、アニメのキャラクターに扮したときも好評をいただきますね」とは前述の石田さん。
最近ではSNSの普及などにより、全国的にもその存在が広く知られるようになったナナちゃん。名古屋を訪れたら必ず出会っておきたい「女性」といえるだろう。
2015年2月からはセーラー服姿となったナナちゃん。これは愛知啓成高校・生活文化科3年生の生徒が卒業記念作品として作ったものだという。ナナちゃんは、百貨店の広報部員だけでなく、自ら地元の学生たちの“思い出の記念碑”も買って出ているようだ。
観光スポットだけでなく、地元にも愛されるナナちゃんは、きょうも広場周辺を歩く人たちをなごませている。
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.1681244&lon=136.88490280000002&z=20
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
大塚家具の親子バトルがますます激しさを増しています。3月に株主総会を控えており、委任状争奪戦になっているからです。父と娘はどちらが正しいのでしょうか。また委任状争奪戦とはどのようなものなのでしょうか。
[写真]大塚家具でお家騒動、創業家父娘の対立泥沼化(Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
大塚家具は、創業者である大塚勝久氏が一代で築き上げた家具販売チェーンです。会員制で顧客を囲い込み、トータルで家具を提案する手法で、一気に大手企業にのしあがりました。しかし、顧客の好みが変化してきたことや、日本人の所得が減ってきたことで、従来のやり方が徐々に通用しなくなります。2009年、業績悪化の責任を取る形で勝久氏は辞任し、娘の久美子氏が同社の代表に就任しました。
久美子氏は、従来の販売手法を転換し、一時は業績が下げ止まったかに見えましたが、2014年12月期の決算で営業赤字に転落してしまいます。久美子氏のやり方に疑問を持っていた勝久氏が久美子氏を辞任させ再びトップに就任したのですが、その半年後、今度は久美子氏が勝久氏を辞任に追い込み、代表に返り咲きます。3月に行われる株主総会を目指して、双方が新しい経営陣の候補者を発表する事態となっています。
同社は株式会社ですから、会社をどのように経営するのかを決定する権限は株主にあります。したがって経営陣の顔ぶれや、会社の最終的な経営方針は株主総会で決定されることになります。株主総会は、基本的に多数決になりますから、どれだけ多くの株主を味方につけるのかがポイントとなるわけです。
現在、同社の株式を最も多く保有しているのは創業者の勝久氏で、2013年12月末時点で18%のシェアとなっています。次に株式を持っているのは娘の久美子氏で、資産管理会社を通じて約10%の株式を所有しています。久美子氏の方が株数は少ないですが、どちらも大株主ですから、共に本人が代表に就任する資格は十分と考えるべきでしょう(資産管理会社の経営権をめぐっても争いがありますが、ここでは資産管理会社は久美子氏のものとします)。
そうなってくると、その他の株主が、どちらに付くのかで最終的な結果が決まります。株主総会における多数派工作のことを委任状争奪戦(プロキシーファイト)と呼ぶのですが、今回の争奪戦でカギを握っているのは、現在、推定で10%ほどの株式を所有していると思われる米国の投資ファンド「ブランデス・インベストメント・パートナーズ」です。ブランデスが久美子氏に付けば、両者を合わせると勝久氏のシェアを超えるため、一気に久美子氏が有利となります。
久美子氏は、社外役員の増員や配当の増額など、安倍政権が進めるコーポレート・ガバナンスを重視する姿勢を打ち出し、他の株主を説得しようとしています。株主からみれば久美子氏の提案は魅力的に見えますが、創業者の勝久氏の実績と比べると経営手腕は未知数です。株主はどちらを選択すべきか、株主総会まで、悩ましい日々が続くでしょう。
(The Capital Tribune Japan)
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
[写真]1900年頃の働くアイヌの家族(提供:MeijiShowa.com/アフロ)
2014年の8月、札幌市議の金子快之議員が「アイヌ民族なんて、いまはもういない」とツイッターに書き込み、物議をかもした。政府の内閣官房アイヌ総合政策室は昨年、アイヌ民族に対する国民の理解度について調査する方針を示したが、アイヌに対する国民の理解度は、けっして高いとは言えないとの指摘もある。そもそも、アイヌとは何なのか。歴史や文化はどんなものなのか。アイヌの歴史に詳しい、北海道大学大学院の谷本晃久准教授に寄稿してもらった。
——————–
アイヌ:ainuとは、アイヌ語で「人間」あるいは「男性」を指す言葉である。同時に、民族名称としても用いられる。政府には現在、内閣官房長官を座長とするアイヌ政策推進会議があり、その事務局として内閣官房にアイヌ総合政策室が置かれている。2008年6月6日に、衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択されたことは記憶に新しい。
北海道が2006年に実施した統計によると、北海道在住のアイヌ人口は約23700人、東京都が実施した1998年の統計によると、都内在住のアイヌ人口は約2700人とされている。アイヌとしていまを生きる人々は、確実に存在している。
アイヌの歴史と文化
それでは、アイヌの人々の存在を、歴史的に考えてみよう。その舞台は、アイヌ語地名がみられる範囲である。北海道の都市名である札幌や稚内はもとより、国後・シュムシュといった千島列島の島名や、ポロナイスクなどサハリン南部の地名もアイヌ語だ。のみならず、地鶏で有名な比内(秋田県)など北東北の各地にもアイヌ語地名はみられ、それは『日本書紀』や『続日本紀』といった古代日本の歴史書にも記録されている。
アイヌ語を話す人々の歴史は、こうした地域に、時代に応じて変化しつつ古くから展開してきた。日本と刀を交えた15世紀のコシャマインや17世紀のシャクシャインの名は、教科書にも登場するから、ご記憶の方も多いだろう。
江戸時代後期には、アイヌの居住範囲は北海道・千島列島・サハリン南部に及んでいた。このうち北海道のアイヌは南に接する日本との関係が深く、それに加え、千島列島中北部のアイヌはロシアとの、サハリン南部のアイヌは中国(清朝)との関係をもち、中継交易のプレイヤーとしての活動がみられた。
こうした交流の一方で、ユーカラ:yukarに代表されるアイヌ語口承文学の世界や、木彫や刺繍に示される美しいアイヌ紋様の意匠が磨かれるなど、独自の伝統文化が花開いた。交易物資としての毛皮や水産物を生産するための狩猟や漁業の技術にも、研ぎ澄まされた独自性がみられる。
ただしこの時期以降、日本商人の営む大規模漁業に、アイヌが労働力として半強制的に動員されることが恒常化した。それに加え、中華思想を取り入れた日本が、アイヌを「蝦夷人」(=東の野蛮人)と見下し、その文化や言語を蔑んだことも、忘れてはならない。
明治維新以後のアイヌ
明治維新以後、政府は北海道の大部分を「無主地」とみなした。そのうえで、各地に「原野」を設定し、従来あったアイヌの土地利用権を顧慮せず、そこへ本州方面からの入植者を募り、「殖民地」を区画して土地を割り渡した。
当局は、殖民地を区画する際に、「旧土人保護」の名目で、もともとそこで暮らしていたアイヌの居留地を設けることがあった。この居留地を、「旧土人保護地」と称する。「旧土人」とは、アイヌの人々を指した当時の行政用語である。これによりアイヌの人々の多くは、それまでの居住・用益地を追われ、「保護地」へ押し込められることが常態化した。
1899年に公布された「北海道旧土人保護法」(1997年廃止)は、「保護地」をアイヌに農地として給付するとともに、教育・衛生を保障しようとした法律である。しかしアイヌを、人種や民族に優劣をつけて考える社会進化論の考えに基づき劣等視し、教育は日本語で行う一方で、一般児童より簡易なカリキュラムの特別学校を設けた。下付地の売買には、「無知」な「旧土人」がだまされないようにとの名目で、道庁長官の許可を必要とした。当事者にとっての不利益を内包するこうした施策に対し、当時から不満を訴え改善を求めるアイヌの人々の行動が見られたことも、近代アイヌ史の重要な側面である。
このように、明治維新以降、すなわち近代の北海道、ひいては日本の社会には、アイヌの家庭に生まれることが、社会・経済的な不利益を蒙ることを余儀なくされる構造があったということになる。国の政策に起因する不利益ということでいえば、より大きな影響を蒙ったのは、ロシアとの国境地域に暮らした千島列島やサハリンのアイヌの人々である。
樺太・千島交換条約、ポーツマス条約、そして第2次世界大戦敗戦に伴い引き起こされた、日露両国間の度重なる国境の変転が、この地域のアイヌの人々に、居住地の移転を強いた。戦後の「引き揚げ」に伴い旧樺太から移住して来られたサハリン・アイヌの人々の御子孫は、主に北海道で、厳しい環境の下、その文化伝統を将来につなぐ努力を重ねられている。しかし、同じく北方領土・色丹島から移住して来られた千島アイヌの伝統を伝える方は、この地球上に一人もおられない。このことの意味を、私たちは考える必要があるだろう。
このようにアイヌの文化は、和風文化、琉球・沖縄文化とともに、わが国における固有の伝統文化のひとつである。沖縄に国立劇場があり、東京・京都・奈良・大宰府に国立博物館があるように、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせ北海道白老町に設置予定の「民族共生の象徴となる空間」に、アイヌ文化を対象とした国立博物館が置かれる予定だ。アイヌの人々の蒙ってこられた社会的な不利益の歴史的経緯とともに、その文化伝統の豊かさを自覚的に共有することは、現代日本社会に暮らすものの素養といえるのではないだろうか。
——————–
谷本晃久(たにもと あきひさ)
北海道大学大学院文学研究科准教授。専門は日本近世史・北海道地域史。著書に、『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社)、『蝦夷島と北方世界』(共著、吉川弘文館)など。
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。