社会そのほか速
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21日に開幕する選抜高校野球大会(兵庫・甲子園球場)に、21世紀枠で出場する豊橋市の県立豊橋工高野球部。四つの部活動でグラウンドを共用し、困難な練習環境を克服したという21世紀枠の選考条件の一つを満たし、創部68年目でかなえた甲子園初出場には、工業高校ならではの工夫があった。(宮島出)
◇部員も測量、整地
「あれが甲子園のきっかけかもしれない」。就任7年目の林泰盛監督(34)は4年前を思い出す。
いてつくような冬の寒さがグラウンドを包み込んでいた。かじかむ指ではノックを受けても、けがが怖い。屋外でボールを使った練習がほとんどできない時期だ。
そんな時、当時野球部副部長だった大羽芳裕教諭(32)がひらめいた。「あこがれの甲子園と同じマウンドを作ってみたら、部員の意欲も高まるのではないか」。建築科で教え、測量の技術や知識もある。甲子園球場のグラウンド整備を任されている会社に電話し、マウンドの形状などを尋ねると、「うちは公認野球規則通り、1ミリも違わないものを作っている」という答えが戻ってきた。
公認野球規則でマウンドの高さ、勾配などを調べ、高校にある測量機器を使って調べ直すと、かなり違うことがわかった。投球板は沈み込み、25・4センチの規則にある高さはなかった。投球板の下を掘り、割石を敷き詰め、再び沈むことがないように地盤を固め、投球板を置き直した。あとはマウンドの頂点の平らな部分を作り、傾斜をつけて整地する。どれも測量機器を使い、規則に忠実に。この作業に、授業で測量を勉強していた部員が興味を持った。授業が終わると、グラウンドに飛び出し、機器をにらみ、1ミリの誤差もないように整地を繰り返した。
「レギュラーになれない選手もこんな方法で力になれる。楽しくて仕方ないようでした。実は工業高校にはやれることがたくさんあったんです」と大羽教諭。
ほかの部員はいつの間にか石拾いを始めた。練習前の5分間、黙々と拾い、高校野球の聖地のマウンドを再現した。投球板を頂点にした美しい稜線はみるみるダイヤモンドをのみ込み、その裾野を広げた。グラウンドの周囲を巡る側溝の泥まですくい始め、大羽教諭らを驚かせた。部員の意識が大きく変わった。
◇手作りの道具残す
昨年3月卒業した元主将で、田原市の会社員水野悟さん(19)はこのダイヤモンドができた春に入部した。「おしゃべりしながら石拾いをしていると『黙ってやれ』と注意されました。先輩たちの思いが伝わってきました。本当に、イレギュラーバウンドの少ないグラウンドだと感じました」と振り返る。
卒業生が学んだ溶接や電気工事などの技術を生かし、練習に役立つ道具を残していく伝統も、この時期から本格的に始まった。水野さんの代は防球ネット、試合用のバット立てなど。強豪校なら当たり前にあるカウントの表示板やスコアボード、グラウンド整備用のトンボのほとんども手作りだ。少ない資金の中、先輩たちの思いと技を込めた道具が、後輩たちの成長を後押ししてきた。
和歌山県出身のグラフィックアーティスト松田光一さん(34)が、熊野古道などの世界遺産をテーマに描いた作品を展示する「世界遺産図展」が、尾鷲市向井の県立熊野古道センターで開かれている。入場無料で4月5日まで。
松田さんは20歳代後半頃から、世界遺産に興味を持つようになり、当初は写真や資料を基に描いていたが、次第に世界遺産を旅し、作品を制作するようになった。現地では、ペンや水彩絵の具で世界遺産をスケッチ。その後、描いた絵をパソコンに取り込み、CGなどを使って仕上げる。鮮やかな色づかいが特徴だ。
企画展では、熊野古道や獅子岩(熊野市)のほか、パリのセーヌ河岸(フランス)や、グレート・バリア・リーフ(オーストラリア)など44点が展示されている。松田さんは「熊野古道の景観や世界観を楽しい色遣いで人々に伝えたい」と話している。
◇警報段階で設置、即応
県は12日、県地域防災計画を改定した。国の防災基本計画の修正内容を反映させたほか、土砂災害や大雪、津波、地震の際の初動対応を強化する県独自の見直しも加え、この日、県庁で開かれた県防災会議(会長=西川知事)で改定案が了承された。
土砂災害なら「記録的短時間大雨情報」などが発令される、大雪対応なら幹線道路で大型車が立ち往生する――など、災害に至る前の、危険度が高まった段階で安全環境部長がトップの「災害対策連絡室」を設置。集まった職員が情報収集や市町や関係機関との連絡調整にあたり、被害の未然防止や軽減を図る。
従来は災害に至っていない場合は、危機管理部門の少人数の職員らだけで対応。災害が発生してから知事がトップの災害対策本部を設けていたが、より早い段階で即応できる態勢を敷く。
連絡室の設置基準も「土砂災害警戒情報」「大雪警報」の発令などと具体的に定め、桜本宏・安全環境部長は「災害が生じてからではなく、災害が生じる前の段階から部局全体で臨む。態勢構築時は躊躇(ちゅうちょ)がありがちだが、基準を明確化した」と説明した。
このほか、原子力発電所の重大事故時など多数の被曝(ひばく)患者が出た際、軽度の患者に対応する初期被曝(ひばく)医療機関で受け入れきれない患者に対応する「初期被曝(ひばく)医療支援機関」に国立病院機構あわら病院や坂井市立三国病院など5病院を新たに指定。この改定で被曝(ひばく)医療機関は10から15に増えた。
東日本大震災の被災地を支援するチャリティー展「連(れん)」が姫路市三左衛門堀西の町のギャラリー「ルネッサンス・スクエア」で開かれている。展示作品を販売し、売り上げは被災地で文化芸術活動を支援している団体に寄付する。29日まで。
姫路地方文化団体連合協議会(姫路文連)が主催。播磨地域の芸術家約70人が絵画や書、陶芸作品などを出品している。前半は絵画などを中心に15日まで開き、17日からの後半は木工や金工、陶芸などが並ぶ。会場には優しいタッチで描いた風景画や素朴な風合いの版画などが展示され、来場者が見入っていた。
同市西二階町の主婦山野陽子さん(57)は「遠く離れた姫路にいながら、被災地に思いを寄せる良い機会になりました」と話した。
午前10時~午後6時(15、29日は午後4時まで)、水曜休館。問い合わせは姫路文連(079・288・6642)へ。
◇橿原市教委 西端見つからず
日本書紀や万葉集に登場する人工池「磐余(いわれ)池」と推定されている橿原市の東池尻・池之内遺跡で見つかった6世紀後半の堤は、上面幅25メートル以上の大規模なものだったと確認され、市教委が12日発表した。地形から幅20~55メートルと推定されていたが、それを裏付ける成果。
2月から堤の西半分にあたる場所約90平方メートルを初めて調査し、全面で自然の高台を利用した堤を検出。池があったとされる西側に向かって緩やかに低くなっていた。前年度の調査で堤の東端が確認されているが、今回西端は見つからず、周辺の堤は少なくとも幅25メートル以上とわかった。
そのほか、小さな柱穴や中近世以降の耕作痕跡が出土したものの、目立った遺構は見つからなかった。
石坂泰士主査は「堤の幅が大きいことが考古学的にも証明できた。30メートルはあっただろう。遺跡は、大規模な土木工事で造ったため池の最古に近い事例で、今後も調査を継続していきたい」と話している。
日本書紀によると、磐余池は5世紀前半の履中天皇が築き、585年には用明天皇が磐余池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)を造営した。万葉集には、686年に処刑された大津皇子(みこ)が池のほとりで詠んだ辞世の歌も収録されている。同遺跡が磐余池と推定されているが、異論もある。
現場はすでに埋め戻されているが、調査成果は17日~5月10日、歴史に憩う橿原市博物館(橿原市川西町)の速報展示で紹介する。問い合わせは同博物館(0744・27・9681)。