社会そのほか速
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パワハラを受けた末に不当解雇されたとして、愛知県犬山市の地域FMラジオ局「愛知北エフエム放送」元局長の男性(51)が15日、同社と社長らを相手取り、地位確認と未払い賃金など計約590万円の支払いを求める訴えを名古屋地裁に起こした。
訴状などによると、男性は2012年11月、経営不振などを理由に局長から降格され、その後も社長らから、暴言や嫌がらせなどを繰り返し受けるなかで心身症を発症。治療のために昨年4月以降は休職したが、この間の社長の電話やメールに返信しなかったことを理由に、同8月に懲戒解雇されたとしている。
原告の男性は「できれば職場復帰し、もう一度、市民に愛される局作りに協力したい」と話している。
ホームページによると、同社は06年7月に開局。同社は「解雇は適正な法手続きに沿って行っている。訴状を確認したうえで対応を検討したい」とコメントしている。
<計算違いで大ごとに>
大阪の大学に通っていましたが、両親の希望もあり、地元・津市に戻って井村屋製菓に入社しました。配属されたのは、学校給食向けに牛乳を製造する子会社の経理。肉まん・あんまんといった看板商品とは全く縁がありませんでした。
入社後数年がたった頃、労災が特別に多く発生している会社との指定を受けました。私が計算を間違い、誤った書類を労働基準監督署に提出したのが原因でした。労基署も気づきましたが、「(書類を)出した以上、1年間指定します」と取り消してくれません。「みんなに悪いことをした」と悔やみました。当時の課長は怒ることもなく指導してくれたのを覚えています。
<独学でシステム化>
30歳になった1982年、妻に泣きついて三十数万円をはたきパソコンを買いました。当時、経理の書類はすべて手書きで手間がかかっていました。「毎日同じことの繰り返し。こんなことでいいのかな」と疑問を持ち、システム化できないかと考えていたからです。
本や雑誌で勉強して、既存のソフトウェアを応用し、経理を手始めに、人事や給与、生産管理、物流と、10年かけて子会社の全ての事務を電子化しました。
仕事が面白くなり、それにつれて昇進もして、2005年にはチルドフーズカンパニーの副責任者になっていました。最初に配属された子会社のナンバー2に当たります。
そのとき起こったのが、全国的な寒天ブームでした。とにかく生産が間に合わない。取引先から「いつできるんだ」と怒られ、社員に残業に次ぐ残業をしてもらい作りました。私自身も、毎日3~4時間しか眠れず、2か月で7キロやせました。
<社長業とマラソン>
近所の知り合いに誘われ、トライアスロンを始めたのは40歳の時です。泳ぎが不得手だったのですが、年齢的な節目を迎え何かに挑戦しようと思ったのです。
20年ほどたった11年6月、自転車の練習中に転倒して意識を失い、救急車で病院に運ばれました。肋骨(ろっこつ)や胸骨が折れていたほか、頭蓋骨にもひびが入っていました。
井村屋製菓が持ち株会社に移行して、初めての株主総会が2週間後に迫っていました。私は財務部門のトップ。私がいないと総会が成り立ちません。事故から2日後、準備のために痛みをこらえながら病院を抜け出して出社しました。総会では多くの質問に答えなくてはいけませんでしたが、何とか乗り切りました。
昨年6月に社長に就任しました。国内の人口が減る中、成長を続けるために、今年4月、海外事業戦略部を作りました。これから攻勢をかけます。趣味では、フルマラソンに挑戦しています。マラソンも会社経営も目標に向かって頑張るという点では共通しています。ただ、経営は経済環境の変化にあわせて走りながら計画を変える必要があり、もっと緊張感を感じます。(聞き手 岡崎哲)
◇
《メモ》 1952年、津市生まれ。75年関西大卒、井村屋製菓入社。財務部長を経て、2013年6月に井村屋グループ社長。トライアスロン愛好者で、フルマラソンも走る「鉄人」社長として知られる。井村屋は「肉まん・あんまん」と「あずきバー」が二枚看板。17年の会社設立70周年までに海外売上高の比率を10%に引き上げるのが目標で、イスラム教徒向け食品にも力を注いでいる。
中核は、簡単な工事でトイレや洗面台、キッチンなどの増設を実現する専用ポンプで、欧州で高いシェアを持つ。今後、日本で住宅を中心にリフォーム需要が活発化することに着目した。同グループ・バイスプレジデントのステファン・アレルさんは、「これまでの日本市場にはない製品。多くの方にさまざまな生活シーンに合わせて使っていただければ」と語る。
当社の排水圧送ポンプを使うと、配水管など住宅構造を気にせずに手軽に衛生機器を取り付けることができます。当社は製品に「世界のだれもが衛生機器のある環境で生活を送ってほしい」という願いを込めています。人間の幸福感や快適さを追求し、常に新たな技術を取り入れて製品開発を進めています。体の不自由な方々にも、気軽にお使いいただける環境を作ります。
日本は衛生機器、水回り関連で世界有数の市場です。日本に拠点を設けて、本格展開を進めることにしました。日本政府の政策の後押しもあり、今後、住宅リフォーム市場が活発化することも追い風と受け止めています。
フランスでは、中古住宅を購入してリフォーム、リノベーションを楽しむ文化があります。当社製品によって、住宅構造に関係なく、トイレやキッチンなどを手軽に思い通りに設置できます。日本でも幅広い年代の方に、暮らしの中の一つの選択肢として当社製品を使ってほしいです。
SFAグループの創業者が日本という国が大好きであることも、この時期の本格展開の理由です。日本は独自の文化を残しながら、さまざまな分野で最新技術を取り入れています。社会にはお互いを尊重する風土があり、企業は質のいいモノ作りを目指しています。私自身もこうした日本に魅力を感じます。
私は、若いころから、いろいろな国で暮らした経験があり、SFA入社後はロシアなど複数の国を担当しました。現在もバイスプレジデントとして、一年の半分以上をフランス以外の地域で過ごし、グループ本社のあるヨーロッパのほか、アメリカ、ロシア、アジア地域を中心に回っています。それぞれの拠点でその国の文化に触れ、その国の文化と市場のニーズを理解して企業活動をする仕事はとても面白いです。
私自身、リーダーとして、それぞれの国の方との人間関係をとても大切にしています。世界のどの拠点でもお互いを理解して尊重し、強い人間関係を築いていくのが私の望みです。働いている人を信じて、現地の市場を理解し、チームを育てます。そのチームを信用することがとても大事で、それがリーダーの仕事です。
私は、一番弱いところがチームの価値になると考えています。チームに強い人がいても、弱い人がいれば、そのチームの価値は弱い人が基準になります。それぞれの国でチームが一丸となって力を発揮していくことが大切です。
人生の中で仕事をする時間は70%から80%でしょう。働いているみなさんが、それぞれのチームの一員として、毎日、楽しく、面白く、仕事ができるようにすることが、リーダーとしてとても大切なことだと思っています。(談)
東京都の就職支援機関「東京しごとセンター」で34歳以下の若い世代を対象にした「ヤングコーナー」を統括する。キャリアカウンセラーが常駐し、相談者の就職が決まるまで無料でサポートする。「働く意欲のある人が全員、働くことのできる社会にしたい」と語る。
インテリジェンスの前身の学生援護会で若者の就職支援事業に携わって以来、20年間一貫して就職を希望する高校生や大学生らの支援プロジェクトを担ってきた。
31歳の時、重い病気で半年間、仕事を休んだ。「生きて元気になったのは、自分には何かやるべき仕事があるのでは」との思いを持った。この時に考え出したのが、高校生の就職サポートプログラムだ。職場復帰後に具体化させ、これまでに全国で40万人以上の高校生が受講した。
「ヤングコーナー」には毎月約2000人が訪れる。就職活動中の大学4年生をはじめ、就職先が決まらないまま卒業したり転職を考えているなど相談者の立場はさまざまだが、「仕事について自分だけで悩み誰にも相談できずにいる」。カウンセラーは相談者の就職に向けた行動計画を立て、応募書類を添削し、面接についてプロの視点からアドバイスする。「若い人は可能性にあふれている。ちょっとしたきっかけで前に一歩踏み出すことができる」。
最近の若い世代の地域志向にも目を向ける。自分が生まれ育った地域など地方で働きたいと考えても満足して働ける場所は多くはない。「地方で若い人が魅力を感じて働ける場所を増やしたい」と次のプロジェクトも描いている。
やなぎさわ えみこ
1988年、学生援護会入社。求人情報誌「an」の営業企画を経て94年から学生・若年層の就職支援を担当。2006年、インテリジェンスとの経営統合で、インテリジェンス雇用開発本部公共事業部ゼネラルマネジャー。現在に至る。教育機関や官公庁などから受託した就職支援事業プロジェクトを統括。高校生向け就職ガイダンスのプログラムも開発。
◇
<メモ>
東京しごとセンターのヤングコーナーでは新卒者向けの求人情報を発信し、東京都内の優良な中堅・中小企業情報も提供している。
<集団就職で上京>
15歳の春、福島県飯舘(いいたて)村から集団就職で東京に出てきました。
常磐線の車窓から見た利根川や荒川の川幅の広いこと。山に囲まれた故郷の風景との違いに驚きました。
就職先は、職業安定所で探したカメラ関係の試作会社。メーカーの新製品の試作品や部品を作る仕事です。金属を削って加工する旋盤などの技術を先輩の職人から学びました。
社長の後押しもあり、26歳で独立しました。東京・八王子に妻と2人で借りた小屋に中古の機械を置き、試作の仕事を始めたのです。
<過疎地に工場>
故郷・飯舘村に工場を作ったのは41歳の時。それまで「いずれ村に工場を作る」と言って故郷の若者を八王子で採用してきました。彼らを郷里に帰すことができるようになり、約束を果たした思いでした。
過疎が進む飯舘では、農業以外に就職先といったら役場や農協、郵便局くらい。地元の人が先祖伝来の田畑を守りながら働ける場所を作りたいと思っていました。
会社にとっても、そうした環境なら社員が辞めることなく、時間をかけてじっくりと技術を習得し、「匠(たくみ)の技」を身に付けられます。
<3年間で100人退社>
2011年3月11日、東日本大震災が発生。東京電力福島第一原子力発電所の事故で、飯舘村は「計画的避難区域」に。工場の近くに暮らしていた多くの社員が、福島市での避難生活を余儀なくされました。
工場の被害は軽微で操業は認められたので、彼らは往復3~4時間かけて飯舘に通勤する日々が始まったのです。
当時、飯舘工場には約300人が働いていました。しかし、避難生活が2年ほどたった頃からです。彼らは徐々に会社を辞めていきました。幼い子供がいる社員も多く、家族の意向もあって仕事を含めた生活基盤を避難先に移すことにしたのだと思います。
結局、3年間で約100人が去りました。我々は「匠の技」が第一。時間をかけて育てた人たちが出ていくのは身を切られるのと一緒。会社にとって大きな痛手です。でも、それぞれ事情のある彼らに、私も幹部も「辞めるな」とは言えない。退社の理由は尋ねず、黙って耐えるしかありませんでした。
その後、新たに採用をして社員の数は元に戻りました。しかし、技術力にはやはり影響が出ます。新しく入ってきた人たちは一から技術を身に付けるわけですから当然です。
<夢のある仕事を>
若い社員たちに、将来性と夢のある仕事をさせたい。今、ロボット事業に力を入れています。人が身に着けて、ものを持ち上げるのを助ける「マッスルスーツ」は老人介護施設などに販売していきます。福島県南相馬市で、大学と連携してロボットを開発・生産する工場を作る計画もあります。社員には「ロボットの匠」になってもらいたいと考えています。(聞き手 浅子崇)
◇
《メモ》 1970年に東京都八王子市で事業を始め、76年に株式会社化した。従業員は約400人。カメラや携帯電話、複合機などの製品の試作や生産などを手がける。2011年にジャスダック市場に上場。介護現場で使うロボットなどの開発も行い、菊池社長は政府の「ロボット革命実現会議」の委員も務める。14年4月期の連結売上高は55億円。